佐藤宗一さんとの対話第二回 ~カルマの解放~
無境 今回は佐藤さんとの対話、第二回目となります。どうぞよろしくお願いします。
佐藤 よろしくお願いします。
無境 佐藤さんもよく言われている本当の自分、前回もその話は出たかと思いますが、今回もまずその話から入りたいと思います。
私が佐藤さんが指導している空風瞑想を行なって、本当の自分とは何かということを、瞑想によって探っていったり、完全に落とし込むことをしてきましたが、改めまして本当の自分とは?ということを佐藤さんにお聞きしたいと思います。
佐藤 本当の自分、という言い方は広くとらえられてしまうと思うんですけれども、そもそも元になっているのが、ラマナ・マハルシの言っている「私は誰か?」の「私」の部分なんですけどね。
それが私の言っている本当の自分というところの意味になります。
ラマナの「私は誰か?」という質問も、非常にざっくりした質問ですけれどもね。
それは改めて問うべきものなのか?というところから出発すると思います。
そしてよく考えてみると、「私は誰か?」ということが実はよくわかっていないんじゃないかと。
そして色んな本にも書いてありますけど、私を体や心ととらえるかどうか、というところから出発して、私とは体とか心ではないか、という結論に至る人もいると思います。
これはもう答えとして収まってしまうと思いますが、どうも体や心ではないんじゃないか?という風に理解する人も中にはいるんじゃないかと。
そうなると「自分とは一体何か?」となると思います。そして「自分とは何か?」これが非常に説明しづらいところなんですけどね。
まあ、「存在」とか「それ」とか、言葉の表現で言うとそういう表現になると思います。
ですがそれはあくまでも言葉なので、瞑想を通じて実際にそれを実感する必要があり、言葉というのはあくまでも導入、きっかけですからね。そのきっかけを元に瞑想で「ああこういうことか」とわかるというんですかね。
そしてそれが本当の自分と私は表現しています。
無境 佐藤さんが本に書かれてたり、言われてたと思うんですが、身体や心が自分である、これは一般的な解釈ではそうなってしまいますが、それは本当の自分ではない、あるいは一部に過ぎない、ということになってきますが、例えば「存在」であるとか、「それ」が本当の自分ということですが、それを人から聞いたり、文字で読んで学んだだけでは、本当にそれがそうなんだ、と理解できない、あるいは難しいので瞑想が必要になってくると思うんですね。
佐藤 そうですね。言葉で言おうとすると本当に際限の無い表現をしなきゃならないと言いますか、瞑想だともう「それ」のことなんですけど、言葉でどう表現するかとなると、それこそ膨大な言葉が必要になってきて、それでも言い尽くせないということに、なってくるんでは無いかと思います。
だからその言葉の中で、どれかをピックアップして自分の中できっかけとして、瞑想を通じてそれを理解していかないと、言葉だけでは完結しないものなので、その辺りが頭の理解と、実際の理解と、そこには大きな溝があるので、やっぱり瞑想という手法を使って、埋めていくということになると思いますね。
無境 そうですね。おっしゃられていることはよくわかります。
実際のところ、古今東西色々な人が本当の自分というものを探ってきて、最終的には探るでもなく、「それ」そのものであったと思いますが、それは私も佐藤さんとお話しさせていただいたり、「空風瞑想」やその他の瞑想を行なってきて、腑に落ちてきています。
そして今お話ししていて思ったんですが、前回もこの話題で対話してきましたが、ちょっと違う角度から投げかけてみたいのですけれども、本当の自分を知る、ということで色々とやってきましたが、私の場合色々と妨げがあるわけですよ。瞑想とかしていても、なんだかんだ浮かんできて、「あああれは美味しそうだな」とか、正直なところそういったことが色々と妨げがあります。
そこでカルマという話になりますが、カルマによってなかなか上手くいかないとか、妨げになるとかよく言われます。
それは私はあると言えばあるという気もするんですね。よくカルマを解放する、ということを言ったりするじゃないですか。カルマによって本当の自分が理解できないとか、理解を妨げるとか。
だからカルマを解放するという話になってきて、私もそれをしなければ、と思っていた時期もありましたし、人に言ったりもしてきました。
このカルマを解放するということについて、佐藤さんも本に書かれていましたが、そのことを本当の自分、ということに絡めてお話しできればと思うのですけれども。
佐藤 そうですね。カルマというのも、これまた広いので何とも一言で言うのは難しいんですけれども、例えば体とか心に、この世界の関わりの中において、しんどいこととか、色々な問題であるとか、そういったことで心がいっぱいになってしまう、これが一種カルマによって身動きが取れない状態であって、本当の自分を探す余裕もありませんよという状態にある時には、それを少しは解放させて余力を、隙間を作ってあげる必要はあるかなと。
そういった意味でカルマの解放というのは必要なんじゃ無いかと思います。
ただそれは隙間ができればいいわけであって、全部綺麗にする必要はないんですね。
そして全部綺麗にするのは、無境さんもご存知の通り不可能なんですね。
もうこれは無理です。綺麗にすると悟れますよ、というのは難しい話だな、というのが私の意見です。それは簡単な話ではない、というのは私もやろうとしてきたのでよくわかります。
じゃあカルマというのは何かと言うと、本当の自分につながることを妨げている何かがカルマとしてあるわけで、それは固定概念であるとか、こうあるべきとか、悟りとはこういうものだという自分で作り上げたイメージというのが、より深いところにあるカルマではないかと思います。
そしてこれはそう簡単に動かせるものではなくて、なかなか難しいものになってきます。
やはり固定概念は歴史を紐解いて見ても、精神的な向上の妨げになっているのがわかります。
例えば地球は真っ平らであるという固定概念が古くはあり、それに対して丸いという説が出てきた時に、平らだという固定概念を持つ人が大多数だとすると、その丸いという意見が潰されてしまうということもあったわけですね。
ですから大事なことは、自分の固定概念を疑う、ということですね。そうでないと真実に届かないことになってしまいます。
まあカルマという視点で言うと、それができるのか?というのもありますね。果たしてそれまでの自分の概念を捨ててまで、よくわからない本当の自分というところに手を伸ばしていいのかとこの辺りも一つのカルマということになってくるのではないかと思います。
無境 今お話しお聞きしまして、二つ大事なポイントがあるかと。
一つはカルマを解消できるかといえばそれはできないと。
でもそれをやりがちであったり、そういうやり方を取る人もいますね。
私が思い出したのはOSHO、かつてはバグワン・シュリ・ラジニーシ、晩年はOSHOと呼ばれていましたが、そのOSHOが最初は静かに座って観察する、ただ在るということを弟子達にさせていましたが、皆あまりにも色々なものを抱え込み過ぎていて、カルマがまだ多くあるということで、ただ静かに座る伝統的なやり方では無理だということで、色んなアクティブメディテーションという、代表的なのはダイナミックメディテーションですが、まずは抱えているものを吐き出す、カルマを解放していき、その後静かに瞑想するというやり方を取りました。
そして弟子達、サニヤシンの中には、「ダイナミック瞑想こそ最高の瞑想だ!」という人もいて、確かに良いやり方だとは思いますが、果たして最高かというと、言葉は悪いですがOSHOの妥協の産物という見方もできるんですよ。
それが悪いということではなく、最高のものかといえば、それは一つの方便であって、それに至らせるための一つの手段ということで考案されたものですね。
そしてダイナミックメディテーションにハマっている人の中には、カタルシスの段階で満足したり、そこで止まってしまう人が多く、本当の自分とは?というところに至らない人も少なくないようなんですね。
確かにカタルシスって気分良いんですよね。だからそこから抜け出せない人も多いんですが。
そして固定概念ですが、これもカルマに通じてくると思いますが、それを超えていくというのは非常に難しいなと。
伝統的なやり方、教えの人達も「これが全てだ」とか「これが最高だ」という人も多いですね。
「地球は平らだ」という人達もそうですね。今でもいるらしいんですよ、地球平面説を唱える人達がまた出てきて、もうびっくり仰天なんですが。
アメリカ大統領選挙でも、普通に見たら結果は出てますが、未だに「いやあれはどうだこうだ」という人達もいて、今でもトランプが勝つと言っている人達もいるんですよ。
トランプを支持するのは良いですが、まだ勝てるというのは、妄想以外の何者でもないですね。
人々がなぜそういうものにとらわれるか?それもカルマといえばカルマですが、固定概念を超えるのは大変なことなんだなと。
やはり固定的な固まったものを解放していくのはなかなか難しいと痛感しますね。
佐藤 確かにカルマの解放というのは、一種の気持ち良さがあるんですよね。楽になっていったりとか、幸福感が増えたりということが、現実的に起こるということが、現実的に現れるので、それの虜になる確率がかなり高いですね。
「効果あるじゃないか!」と言われたら「ありますよ」と私も言うしかないですけれども。
だけど問題はカルマを解放するというのは、悪いことではないし、むしろ良いことだと思いますけれども、それの虜になると、目的を見失ってしまう、「何のためにカルマを解放しているんだっけ?」と目的がぼやけてしまうので、ブレていったり逸れていったりするという一つの要因にもなってしまったりしますね。
だから本当の自分というところの、言葉ではなくて一種の感覚的なものを「ああこれなんだ」というのを、朧げながらでも置いとかないといけないんですね。自分の感覚として。
そうじゃないと瞑想でも何でも、闇雲にやるようになってしまうので、うっすらでも自分がそこに向かっているんだ、という方向性が必要になってくるかと思います。
無境 カルマの解放で凄いエクスタシーを感じたり、「ああ、これなんだ!それなんだ!」と思い込み安いところもあると思うんですね。
でも佐藤さんから見れば、それは本当の自分で在ることとは似て非なるものとなるわけですよね。
佐藤 そうですね。ちょっとした隙間を開けてあげて、「これが自分なんだ」というのが手触りでもわかっていれば、ハッキリ言ってカルマの解放というのは、もはややらなくて良いんですね。
何でもそうですけど、ただ自分を見つめるにしても、最初は導入としてカルマの解放というのは必要ですが、途中でそれを止めるというタイミングがあるんですね。
じゃないとずっとそれに作業として関わってしまうので、目的はやはり私は誰か?とか、本当の自分は誰かを知る、というのが根本でして、そこに向かっていくんだ、という意識を見失わないようにしないと、どうしてもカルマの解放の効果とか、瞑想の効果というものに引きずられてしまうというのがありますね。それもまた大きな枠で見るとカルマということになると思います。
無境 方向性を見失ったり、目的と手段を混同するというのは、よくあると思うんですよね。
OSHOのサニヤシンの何人かは、本来のダイナミック瞑想の目的である「自分とは何か?」ではなくカタルシスによる解放が目的になってしまって「ああ、これで良いんだ」となってしまう。
まあそれはそれで良いんでしょうけど、ただ本当の自分とは何か?というところが見失われてしまうかなと。
だから難しいところですよね。カルマの解放が全く必要ないかといえば、ちょっとそういうわけにもいかないかと。
余程の天才でないと無理だと思いますし、じゃあずっとカルマの解放をやり続ければ良いのかというと、それもちょっと違うし、そちらばかりに向かうと、本当の自分の方に行かずに、何かこう単に掘り続けて終わってしまうという、なかなか一筋縄では行かないなという印象がありますね。
佐藤 なかなか難しいところですね。どこまでやるのかという区切りみたいなものがあるわけではないので。どの辺で止めれば良いのか?とかね。その辺りは難しいところでもあるし。
ただ実際はそれを作業としてやるのは、要するに隙間が空けば良いわけなので、まあそこまでで良いんですけどね。
後はどのみち反応として起こってきますから、それにばかり意識を集中する必要はなくなってくるんじゃないのかなと思いますね。それがわかっていて止められないんですけどね。
無境 そうですね。よくあるのが何かカルマなり何なりがあるとして、よく見ていれば落ちるということを言われることがよくあるんですよ。
確かに軽いものならそれで良いでしょうけど、パッと気づくだけで落ちることもあると思うんですよ。ただ非常に根深いものはそれだけで落ちるのか?という疑問がありますが、その辺りはどうでしょうか?
佐藤 確かにねえ、心悩ませる根深いものがあると言えばあるんですけど、ただそれも固定概念みたいなもので、それを根深いものだと想像で作っていないかということを疑う、ということも必要になってくると思います。
むしろそういうものがあった方が、自分として楽になる場合もあるんですよ。何か自分の存在がそれで確かめられている、例えば辛いこととかそういうことがあることによって、自分の存在があるんだということが確認できるということも、一つの意味としてありますので、その辺りを確認する必要もあるかと思います。
それと本当の自分を見つけるということと、じゃあどっちが重要なんですか?ということですね。
根深いものを解消するために時間を使うのか、まあそれも大事かもしれませんけれども、それと本当の自分を見つける、知るということに時間を使うことのどちらが大事なのか?ということ熟考する必要があるんじゃないかと思います。一つの考え方として。
無境 今仰られたことは、基本的に最もだと思うんですけれども、反論ではないですが、私個人のことで言うと、自分の中に根深いとされるものがありまして、それに対してある程度取り組むことによって、本来の自分に気づくというところがありまして、というよりもそれをやらないとダメなところがあったんですよ。
ですからあまりにも根深いものに関しては、佐藤さんが言われたように、それによって気づくこともあるし、それはそうだと思いますが、これもケースバイケースという気もするんですね。
人によってはある程度取り組んだ方が良い場合もあるし、でも人によってはそれをやり過ぎることで堂々巡りの場合もあるでしょう。
それと私は今の話はよくわかるんですが、人によってはあまりにも強烈な問題があるとしてしまっていると、そちらにばかりあまり意識を取られないように、と言うと、「何であんたはそんなことを言うんだ!よくそんなこと言えるな」となっちゃう人もいるんですよ。
ですから今の話題に出たことは、結構デリケートな部分があると思いまして、誰にでも当てはまるものではないかな、という気がしています。
佐藤 だから何て言うんですかね。細い道でも良いから、ちょっと隙間が空いていくという状態が大事かなと思いますね。そういう根深いものに取り組むとことは、私は「どうぞやってください」と言いますし。
ですがそれが100%ではなく、例えば99%くらいにしておいて、残り1%くらいは、全く違う切り替わるものがあって、それは瞑想かもしれませんし、それによって在るというところに自分を落ち着かせることかもしれないですが、そのバランスが大事なんじゃないかなと思います。
無境 そうですね。佐藤さんとはよくお話しさせていただいて、非常にバランスが取れているなと思うんですけれども、結構「いやそんなもの必要ないよ」と押し付ける人がいるんですね。
確かにその人が、その人なりの成功体験で上手くいったんでしょうが、じゃあずっとそれに取り組んでいかないといけないのか、一切取り組む必要がないのか、あまり偏りすぎるのもどうかなと思うんですけれども。
非二元の人でそういうものを一切解消する必要がないんだ、と言ってしまう人もいて、それも全て幻想だからなどと言うんですが。
佐藤 それはちょっとバランスを欠いていますね。それもまた一つのカルマであるし。カルマだから悪いということではないんですよ。その人の持ってるものだから、その人の道であるし、それはやっぱり尊重しなければならないかなと思います。
ただまあ、色んな選択肢があって良いわけで、どんな人でも色んな選択肢があり、考え方も色々とあって良いですね。
考えというのは面白いもので、固定概念とか言ってますけど、柔軟に変えることができるんですよ。それが悪い面に出ることもあるけれども良い面もある。考え方は変えられるんですよ。
今までガチガチでも、これしかないんだとなっていたのが、「いや、これでも良いのかな?」となることもあり、思考には柔軟性がありますから、むしろそれを上手く使っていくのが良いんじゃないかなと思いますね。
無境 佐藤さんご自身は、ガチガチのものが変わったということがあるんですか?あるいは指導をしている中で、ガチガチだった人が変わっていったというケースはありますか?
佐藤 そうですねえ。私も長年人生を送ってますから、色んなことがあるわけで。それこそ大きな問題で頭がいっぱいになるということもありましたが、私の場合は瞑想をしていたので、瞑想のたった2〜30分は完全に切り離そうという風に意識を変えて、その間は瞑想のことをやって、色んな問題は瞑想が終わってからやろうと、その辺りは切り替えていましたね。
それが良かったのか悪かったのかはわかりません。ただそういうことをやってきて、私の感覚の中ではそれでバランスが取れたのではないかなという感じがします。
問題は問題で取り組まなきゃならないし、それはやるべきことなんでやりましたけれども、そんな瞑想をやっていたから、楽に物事が進んだということはないです。それこそメチャクチャ大変でしたけれども。
でもそれは逆に隙間があることで、しっかり取り組めた、というのもあるんじゃないかなと思います。その1%の余裕があるだけで
無境 瞑想したりスピリチュアルなことをやるだけで、全てが上手くいくと思っている人達がいて、実際にそういうケースもあるかもしれませんが、そうはいきませんよね。
とはいえ、恐らく瞑想に取り組むことによって、1%でも隙間、余裕ができたことで、カルマにも取り組めたと思うんですね。
やはり瞑想をしているとしていないとでは、日常生活での心構えであったり、心の持ちようも違ってくると思います。
それって、現実生活の色んな物事に対応していったりとか、そういうことも非常に大切だと思うんですね。
そのために瞑想するというものでもないんですが、そういったこともあるという気がします。
佐藤 そうですね。そういうこともありますし、そういうことが起こったら、自然と受け入れて良いんじゃないかと思います。
やはり目的が本当の自分を知る、というところに置いてますから、そこをブレないようにするというのが非常に大事になってきますね、大抵はブレますから。
瞑想の効果というのがありますから、それにとらわれると、何か起こった時に「ああ、これは瞑想していたからだ」とすごく嬉しくなったり、特別なものと感じたり、そういうことになったりするので、そうするとその効果を得るために瞑想しようと段々ズレていってしまうんですね。
そうなるとカルマの解放と同じで、際限のないループに入ってしまい、その辺りが気をつけないといけないですね。それが別に悪いことではないですが。
ただ考え方など変わってくるでしょうね。見方が変わってきたりとか、そういうこともあるでしょう。
それはそれで「ああ、見方が変わったんだ」ということで、自然な自分のものとして持っていれば良いんじゃないかと思いますね。
無境 目的があって、そこからズレたりブレがちなんで、そこからズレないように気をつけることが大切なわけですね。
これが一切ブレてはいけない、となるとちょっと違うかな、という気がするんですが、私の以前の仲間達で、一切ブレてはいけない、ズレは一切ダメみたいな人達がいて、そうすると余計とんでもないブレやズレになっていく感じがありまして、ブレてはいけないというのも固定概念じゃないですか。
マスターの言動から一切ズレてはいけない、というのはカルト教団でよくあることで、それは逆に固定概念ではないですか。ひどい矛盾ですね。
私もかつてはそういうところがあって、そこから抜け出してみると、何であんなことをしていたんだと思いますがね。
佐藤 ブレちゃいけないということはないです。私もブレブレで来ましたから。何十年もかかってようやくここまで来たわけで。
だけどブレたからわかるということもあるんですよ。だから「それはブレてますよ」と人に言うこともできる。
ただ「ブレちゃいけませんよ」ということは言わないです。これ微妙なニュアンスの違いあるんですけど。
でもまあ、わかっていることだからお伝えはしますし、それで「ああ、これがブレているということなんだ」とわかる人はわかるかもしれないし、「ブレるも何も、こっちの方がいいんだ!」と突き進む人は、それでも私はいいんじゃないかと思うんです。大きな枠で見ますとね。
その人にはそれが必要だったかもしれないんですよ。何十年もブレたまま、カルマの解放とか、瞑想の効果を求めていくことなどが、今のその人には必要なことかもわからないです。
でもそれがその人の終わりではなく、あくまでも経過、プロセスですから、ある時何かに気づいて「これはちょっとおかしいぞ?」という風に自分で気づくことが大事で。
それで自分のやっていることに疑問を持って修正をしていく、それがその人の道かもしれませんし。
その辺りは私はあまりガチガチではないです。
無境 結構ガチガチの指導者も多いものですからね。そういう指導者について行きやすいという、依存的な人達もいるので仕方ありませんが。
私は佐藤さんのような、融通無碍なタイプが良いですけどね。
佐藤 その人もいずれ自分で気づいていくでしょうから、それまでは「どうぞ好きにやってください」と言っていますがね。
無境 確かにやってみないとわからないところがありますからね。今陰謀論にハマっている人達など、そこから抜け出した目で見ると、「一体何をやってるんのかな?」となってしまうんですが。
まあ、かつての自分も色々とああじゃこうじゃやって抜けてきたので、やらないとわからないかなと思ってますが。言われても無理ですからね。自分で気づかないと、自覚しないことには。
佐藤 やはり本当の自分でもそうですけど、自分でわかるというのが、明確に明瞭にわかるというのがどうしても必要になってきます。
これは知識ではないですからね。どれだけ本当の自分についての知識があるではなくて、一種の感覚的なもので、「ああ、これか」というものがわかっているということですからね。
そこは自分の中で納得しなきゃならないです。ですから色んな脇道に逸れるかもわからないですが、それも全体で見るとちゃんとした目的地に向かっているかもしれないので。
無境 本日も色々と貴重なお話をありがとうございます。
最後にまとめとして、本当の自分についてと、カルマの解放について語り合いましたが、本当の自分とは何かを探究していきますが、それを邪魔するカルマがあって、その辺り、どのように取り組んでいくかということを、最後に佐藤さんのご意見をお聞きしてみたいと思います。
佐藤 まあカルマというのはあるものですから、最初の段階では取り組むべき。でも隙間というものを自分で持っていた方が良いということを、今回お話ししてきましたが、そういうことになると思います。
まだその先の話はいくつかありますけどね。それだけではなく、そこからどんどん進んでいきますが。
無境 今回の話は、比較的最初の段階、とっかかりのところの話がメインであったと思いますが、また次回以降その先の話であるとか、この辺りの話をより深く掘り下げていったりとか、色々と話ができると思いますので、どうぞよろしくお願いします。
佐藤 よろしくお願いします。
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