善悪にとらわれず
私は映画が好きで良く見ますが、単純にハッピーエンドでみんなが幸せになってというものより、色々と考えさせられるものの方が好みです。
みんながハッピーで幸せになるというのは、そこから深く学びとれるものがないと言いますか、魂の奥深くまで響くものがあまり感じられないことが多いです。
もちろんこれは人それぞれなので、私のような見方が正しいということではないです。
私も子供の頃はホラー映画は大嫌いで、そういうものを見る人の気が知れないという思いで、血生臭く残虐なシーンなど見てられず、何でわざわざ怖い思いをしなきゃならないんだ、と思っていました。
それが数年前から、何でもかんでもということはないですが、いくつかのホラー映画を見るようになり、非常に優れたものもあるなと、自分のそれまでの思い込みが壊れてきました。
例えば具体的には「エクソシスト」であるとか、「シャイニング」など、単にホラー映画として優れているというだけでなく、あらゆるジャンルの映画の中でも、一つの映画作品として優れていると評価されています。
「エクソシスト」は一人の少女が悪魔に取り憑かれてしまい、母親が大変な思いをして、必死で娘を助けようとします。
そして神父に頼んで、エクソシスト、悪魔払いの儀式を行い、悪魔が神父の心の弱さや闇も突いてきて、心理的な葛藤、争い、そういったものが非常に深く描写されています。
単にホラー映画、オカルト映画だけでなく、一つの映画としてもはや古典となっています。
「シャイニング」もホテルに冬の間管理ということで一家が滞在していて、その間に一家の主人、父親がどんどん精神的におかしくなっていき、母親と息子がそこから脱出していきますが、そこで繰り広げられる心理的な葛藤、争いなどを名匠キューブリックが巧みに、表現しています。
血生臭い場面がどうしてもダメ、見られないという方は無理に見ることはないですが、人の心理、精神状態、光だけでなく闇の部分などを全体的に見たい、という方は是非ご覧になられるといいでしょう。
人の心の闇であるとか、悪の要素などをどうしても受け入れられない人がいまして、スピリチュアルに関心のある人にはそういうタイプの人もかなりいますが、私もかつては自分が聖なる存在になるんだということで、一生懸命光の方だけ見て、自分の中にある闇や悪の要素など、そういうものを見ないように、押し殺してきた時期がありました。
その結果どうなったかというと、その反動がきて却って闇落ちをしてしまうことがありました。
ですからやはり私達は善なる要素、光の要素だけでなく、闇の部分も見ていく、それも自分の中にあるんだということを見つめて、理解しておくことが大切だと今は実感しています。
私の知り合いで、スピリチュアルのスクールに学びにいった人がいまして、その友人は自分の中にある闇の要素であるとか、怒りや悲しみ憂いといったもの、ある種悪魔的な要素も自分の中にあるのを理解していた人でした。
そういうものを何とかしたいとのことで、そのスクールに通いましたが、友人は闇の要素、悪魔的な要素を隠さずに出していったんですね。
ところがそれを指導者や共に参加している人達はそれを受け入れることができず、「あなたは悪魔に憑かれている、闇落ちをしている、そんなことじゃダメだから、もっと私達の方を向いて、私達の中に入ってきなさい」というようなことを言われ、本当にガッカリして絶望してしまったと友人は言っていました。
私が思うに、友人は自分の中にある闇とか悪魔的な要素であるとか、そういうものを見つめて、克服していこうとしており、隠さずに表現していましたが、スクールでは拒絶されて、「光や愛そちらに行きましょう。あなたは闇落ちしているから」と言われたと。
私はそれを聞いて憤りましたね。「一体何なんだそれは!?そんなんで人々を助けるだとか、覚醒だ、悟りだとか、もはや話にならない、お笑い草でしかない」と思いました。
そういったサークルを組織して、それなりの人が来るということは、ある程度の知識や力はその指導者はあるのでしょうけど、光や愛ということばかり目を向けて、人間の中には内在している闇や悪の要素であるとか、そういったものに目を向けずに何が人助けだと、何が悟りだ、と感じます。
やはりどうしても光や愛というものに人々は惹かれる。
これは当然ではあり、悪いことではないですが、本当にスピリチュアリティをより深めていきたい、確立していきたい、真に目覚めよう、覚醒しようという方は、光や愛だけではなく、必ず内在している闇や悪、それらにもしっかりと目を向ける必要があるかと。
そして人は悪に惹かれることがあるんですね。ピカレスクロマンというものがあり、悪役が主人公の物語があります。
そういったものに惹かれる人も少なくないですね。
悪役が主人公の映画として「時計仕掛けのオレンジ」というスタンリー・キューブリック監督の映画がありまして、私は原作小説も読みましたが、主人公がまだ10代の若者ですが、悪の限りを尽くしていると。
そして警察に捕まって、強制洗脳プログラム、無理矢理にでも更生させようというプログラムを受けまして、人格が崩壊しそうになり、本当に大変な目に遭うというのが途中までの粗筋です。
主人公は悪の限り、非道の限りを尽くすので、普通なら感情移入できないですが、何だか非常に魅力的なのですね。
ですから私達はこの主人公のアレックスに、知らず知らず感情移入してしまったり、そこまでいかなくても何か惹かれてしまいます。
そして無理矢理、強制的更生プログラムを受けさせられて酷い目に遭いますが、そうすると私達は思わずアレックスに対して「可哀想だ」とか「気の毒に」という思いが出てきてしまいます。
元々アレックスは、極悪非道な救い難い人格でしたが、それでもアレックスがそんな目に遭って大変だな、とかもう少し何とかならないかな、と思ってしまいます。
悪の限りを尽くす主人公にも、私達は感情移入してしまったり、気の毒に思ったりしてしまうというところがあるんですね。
そのような要素が、私達には間違いなくあるんだということを理解しておくことが大切ではないかと。
悪とか闇とか、そういうものから目を背ければ背けるほど、反動が返ってきたり、かえって闇落ちをしてしまうことになります。
また映画の話になりますが、「スターウォーズシリーズ」がありまして、数年前公開された映画で一旦完結しましたが、これは単純なスペースオペラ、勧善懲悪の痛快な冒険活劇SF映画だけでなく、なかなか深い哲学的要素やスピリチュアリティがあると私は見ています。
スターウォーズにはフォースという宇宙に偏在する力があるとされており、ライトサイドとダークサイドという2つの要素がフォースにあります。
ライトサイドを用いるのがジェダイ、ダークサイドを用いるのがシスという2つの勢力があります。
ジェダイが宇宙を統括している時代があり、その時はフォースのライトサイドが優位ですが、次第にダークサイドが優位になってくるとジェダイが没落してシスが宇宙を支配する時代がきます。
そしてまたライトサイドが勃興してきて、シスが没落、消滅していくことを繰り返していくのが、大きなスターウォーズの世界観です。
ジェダイはフォースのライトサイド、光の面しか見ません。ダークサイドを徹底的に排除し、意識しない、目を向けようとしません。
そうなると段々ダークサイドが勃興してきますが、そのことにジェダイは気付きません。
ジェダイの優秀な騎士や長老でも、段々ダークサイドが勃興してきてシスが入り込んできても、それに気づくことができません。
それを私はライトサイドばかり見ていると、ダークサイドに飲み込まれてしまうということを表していると思います。
スターウォーズシリーズは、スピリチュアルな観点から見ても非常に深い映画だと思います。
今までご覧になっていなかった方は、単なるお子様向けの勧善懲悪冒険活劇、という思いを捨てて見ていただきたいです。
スターウォーズで描かれる、ライトサイドだけ見ていると、ダークサイドに飲み込まれる、というのはまさに真実であると実感しています。
ですから両方をしっかりと見る。もちろんダークサイドに取り込まれてしまっては元も子もありません。私はダークサイドが良いともちろん言っているわけではないです。
見ないでいたらかえってダークサイドに落ちてしまいかねないですよ、と言っているのです。
どちらに偏ることなく全体を眺める、偏らずにただ在ることです。
そして人間世界の善悪というものも、相対的であり絶対的なものではないですから、正義だ善だということばかり言っていると、とんでもないことになりかねません。
戦争も正義の名のもとに行われることも多く、大きな事件を起こしたカルト集団、カルト教団も自分たちは絶対的に正しいことをやっているんだ、ということでとてつもないことを起こしてしまっています。
正義や善も下手をすると悪以上に恐ろしいものとなり得ます。
私としては善にも悪にも、光にも闇にもどちらにも偏らない、そしてそれらにとらわれずにただ在る、のが本来の在り方であるというのが、長年の自分の経験であるとか、色々な人々を見ていて導き出された結論です。
0コメント