マハルシの臨在 〜存在とともに〜

古今東西様々な悟ったと言われるグル、マスターが存在しましたが、そんな中でも間違いなく本物であり、本当に悟ったと言われる方が少ないけれども存在しており、その中でも二人突出した方がいて、一人はラマナマハルシ、もう一人がニサルガダッタマハラジです。



今回はラマナマハルシについて語ります。



マハルシがどのようなことを語っているかとか、どのような悟りを開いているかとか、そういうことよりも今回は私がラマナマハルシについて感じたこととか、印象などをつらつらと語ってみます。



マハルシの名前を知ったのは結構前でしたが、本格的に本を読んだり、その存在を意識し始めたのは数年前になります。



マハルシの本は数冊翻訳されておりまして、今読めるものはほとんど読みましたが、書かれていることが非常に素晴らしい、というのは当然ですが、私がラマナマハルシに非常に惹かれた、感銘を受けたのは言葉よりも写真であるとか、臨在や存在に惹かれました。



マハルシの写真は色々と存在していますが、ラマナの写真を見た方はお分かりの通り、非常に穏やかで静寂そのものというお顔をされています。



この眼差しに惹かれたという方も、多くいらっしゃると思います。



ラマナマハルシ関連のサットサンがありまして、そこに集って話をしたりしますが、そこで沈黙して瞑想状態にあると、本当にラマナの臨在というものに触れるような気がして、静寂に満たされていきました。



そして都内にラマナマハルシの教えや存在に感銘を受けている方々がきて瞑想する、というラマナアルールという場があり、そこで何度か瞑想しましたが、これがラマナの恩寵ではないか、というものに触れました。



これはもはや体験というよりも恩寵そのものを受け取ると言いますか、自分の中から恩寵が沸き起こってくる、そのようなことがありました。


そしてこのことは何ら特別なことではないんですね。


よくそういった場で瞑想したり、信奉者の人々と一緒にいると、強烈なエネルギーを感じることが多く、そのエネルギーによって大いなる至福を感じたり、心が静まることがありましたが、マハルシの恩寵や臨在に触れた時は、エネルギーや至福に満たされた恩寵というより、エネルギーを超えた存在そのものに触れる体験、ここではあえて体験という言葉を使いますが、そのようなことが起こりました。


人によってはラマナアルールで瞑想して、至福に満たされるとか、感極まって涙が溢れて止まらなかったとか、そのような方もいらっしゃるようですけれども、それは人それぞれなので、どれが正しくてどれが間違っているということはないですが、私がラマナの恩寵に触れた時は、何も特別なことはなく、感極まったりすることもなく、本当に静かで静寂で、至福というものも超えてただ在る、という状態ですね。


「ああ、これがラマナの臨在、恩寵というものか」という気がしました。


他の優れたマスターに接したり、亡くなっているのだけれども「これがマスターのエネルギー、恩寵なんだ」という体験も何度かしていますが、ラマナマハルシの臨在は、強烈なエネルギー体験を伴うことなく、素晴らしい至福体験が起こることもなく、感情が大いに沸き起こることもなく、静かで自然で特別なことなく淡々としたものでした。


そして真に目覚める、覚醒するというのはこういうことなのだろうなという確信を抱くに至りました。


以前の私は特別なエネルギー体験や、物凄い至福体験がよく起こり、それにとらわれており、その先に悟り、解脱があるのだろうと信じていましたが、そうではないのだと、それを超えてその背景にある存在、ただ在るということなのだ、という確信を今は抱いています。


色々と悟りや覚醒などを説く人はいまして、日本でもそのような方は何人かいますが、よく話を聞いてみると、何らかのものを付加している、付与している方が多いですね。



エネルギー体験のことであるとか、人格を伴った存在からメッセージを受け取るとか、輪廻転生のことであるとか、そのようなことを説かれる方もいます。



対してラマナ・マハルシ、これはニサルガダッタ・マハラジもそうですが、輪廻転生は本来は存在しないと言われていますし、余計なことを一切付与しない、付け加えることがありません。



本当にただ静かに在る、何もせずただ在るということです。


それこそが本来の在り方なのだなと思います。


本を読むだけではなく実際にラマナの臨在、恩寵に触れることで、そのことに確信を抱くようになってきました。
  

ラマナ・マハルシはアルナーチャラという山、聖地にずっといらっしゃいました。


そこには多くの方が訪れていますが、そこで特別な体験が起こったりする方もいるようですが、私が瞑想を教わっている方は、アルナーチャラに赴いた際、特に何もなかったそうです。



この何もなかったというのは悪い意味ではなく、ラマナ・マハルシの存在が特別なエネルギー体験や、至福といったものを伴わない、そういったことがないということです。



もちろんアルナーチャラで何か特別な体験があった、至福に満たされたということがあって、それが間違っているとか悪いということはないですが、私にとってはラマナの臨在、恩寵、存在というものは、特別なことは何もなく、静かにただ在る。真我とはそういう在り方なのだと実感しています。



そしてアルナーチャラには瞑想ホールがあるそうですが、プログラムが組まれているわけではなく、そこでは皆好きな時間に好きなように瞑想しているそうです。



これがOSHOのアシュラムでは、色々な瞑想プログラムがあり、それぞれを選択して瞑想ができるそうですが、そういうものが合っている方はそれでいいですし、私もOSHOの瞑想プログラムに参加してしてみたい気持ちもありますが、ラマナ・マハルシゆかりの地であるアルナーチャラでは、様々な瞑想プラグラムなどなく、自然にそこでただ静かに在る、自然と自分自身に向き合う状況にあるとのことで、やはりラマナゆかりの地ではそれでいいのだろうな、という気がします。


本当に人が精神的に目覚めてくると、余分なものがどんどん削ぎ落とされていきます。


それがごく自然な在り方です。


そのことがラマナの本を読んだり、存在に触れることで、本当にそうなんだなと明らかになってきたのです。



それまでの私は本当に余分なものを色々とくっつけていましたが、それらを無理矢理落とすというより、自然に落ちていくという方がより正確ですね。


何か操作をしたり、強引に落とすということではなく、本のタイトルにもありますが、あるがままにということなのだな、とつくづく思います。



ラマナ・マハルシの教えはもちろん素晴らしいですが、私はラマナの臨在、恩寵、存在に触れられたことは、私にとって非常に幸運なことであったし、これ以上の喜びはありません。



この喜びも何か感極まったりということでなく、静かな自然な喜びなんですね。



今後もラマナの臨在に触れ、マハルシの恩寵を受け、存在そのものと共に在りたいなと思います。



これをご覧になった方も、ラマナの教えに触れたり、臨在や存在に触れられればよろしいのではないかと思います。

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