言葉だけでは真実を正確に表現できない

ここ数年日本の夏はひどく暑いですが、あまりにも暑いと頭が朦朧としてきます。そうなると言葉も出てこなくなりますね。



「ほら、あれだよあれ」「ほら、なんだあれだ。ここまででてるんだけど」と、これは一定の年齢に達すると、人の顔や名前が出てこなくなり、「あれ」「それ」「これ」といった指示代名詞しか出てこなくなることもあります。



私も30代くらいまでは、人の顔と名前を覚えるのが得意な方でして、これは誰それだとすぐのパッと浮かんで、忘れることもなかったのが、年齢を重ねるごとに名前が出てこなくなりました。



知り合いの名前であるとか、映画やドラマを見ていて役者の名前が出てこなくなってきました。「あれだよあれ!顔は浮かんでるんだ!」と友人同士の対話で、あれだこれだ、しか言葉が出てこなくなるという情けない事態です。



本当に名前が浮かばなくなり、あれとかこれとしか言えなくなってしまいます。これは暑さのせいではなく、加齢が原因でちゃんと頭を使っていないと衰えてくるのだなと実感します。



そして「それ」とか「これ」という指示代名詞があり、正確に思い出せなくて「あれ」とか「それ」とか「これ」だけでは会話になりませんが、自分自身の本質については、色々な表現があり、「空」や「仏性」や「真実の私」とか「真我」であるとか、様々な言い方があります。



このように色々とある中で、例えば「これ」とか「それ」という表現をされることもあります。本質的なことは言葉で正確に表現はできませんが、あえて表現しようとするとシンプルになっていきます。



先日アマゾンレビューで、覚醒や悟り系統の本でしたが、その中のレビューの一つで、翻訳に対して文句を言っている人がいました。



「それ」とか「これ」といった指示代名詞ばかりで、何が言いたいかわからない、だからこの翻訳は悪い、語っている人の表現が良くない、そういうことをレビューで書いている人がいました。



私はそれを見て「だけどそれは翻訳者や表現者の問題ではないのだけどな」と思いながら見ておりました。



表現する人も「それ」とか「これ」という言い方になり、言葉では正確に言い表せないから「これ」という表現になるのだというレビューもあり、翻訳者もそのようにあったら当然そのように翻訳します。



私が思うに、「それ」とか「これ」という表現だと、他の色々と余計なものをくっつけてしまうことが少ないです。



例えば「空」という言葉があり、それを聞いてある人は「何か空しい」という印象を抱いたり、単に空っぽというイメージをしていまう人もいるのではないかと思います。



他に「真我」という表現があって、我という言葉があるので「それも結局、我、エゴではないか」という印象を持つ人も中にはいると。



「仏性」といっても仏とはああで、こうでというイメージが付加されてしまいます。



神という言葉がありますが、神とか愛という言葉は、それこそ多くの人が多種多様なイメージを抱く最たるものだと言えましょう。



神と聞くと、白い長髪で髭もじゃで、杖をついているおじいさんがイメージされる人もいるでしょうし、中には「神の名のもとに、多くの戦争や紛争が引き起こされたのだ!」と憤る人もいます。



そして今、愛という言葉を聞くと、恋愛や性愛という印象が強くあります。そうでなくても家族愛であるとか、愛国心だとか、仲間を愛するなどといった印象が強くあります。



より本質的な愛ということをイメージする人は、そう多くないのではないかと思われます。



根本的に本質的なことを表現しようとしても、様々なイメージ、余分なものが付加されてしまう。それによって理解できなかったり、外れていってしまうことが、多く見受けられる気がします。



その点「それ」とか「これ」だけだと他の様々な言葉よりは、余分なイメージがくっつかない印象があります。



ですから私は「それ」や「これ」という表現が気に入っています。



フーマンは「これ」と何度も書籍を読むと言っていました。OSHOの本でも、これこれ千回もこれ、というタイトルの本がありました。



突き詰めていくと言葉で表現できる領域ではなく、それを超えていますから、どうしても「これ」とか「それ」という表現にならざるを得ないのかと。



もちろん「それ」とか「これ」という言葉自体に意味があるわけではありませんが、その言葉を超えたところで理解が生じます。この理解は当然頭で考えた、思考によるものではありません。言葉にするならば、腑に落ちるという言い方が近いかと。



ですから「それ」とか「これ」という事に対してよくわからないという人は、表面上の理解、頭だけで理解しようとしてしまっているのかと思われます。



言語だけでは理解できないことなので、本を読むだけではダメだし、本を読む際にも字面を追うだけでなく、その奥にある本質をつかみ取っていくことが大切です。



言葉では本質を正確に伝えることはできませんが、私たちは言葉をどうしても使わなければならない場合もありますし、使わざるをえないですが、あまり言葉にとらわれすぎないことです。



ラマナ・マハルシは沈黙によって答えたということが伝わっており、沈黙による伝達もあったということです。



仏陀も質問に対して、余計なことを言わずに沈黙された、という記述もあります。



下手に言葉にすることで、余計理解が遠のいてしまったり、外れてしまうこともあります。ですが私たちはどうしても言葉を使わないと伝わらない場合も多々あるので、そこはジレンマも生じます。



本当に本質に近づいてくると、余計なものも落ちていき、言葉もシンプルなものとなります。美辞麗句ばかり並びたてる人は、あまり信頼が置けません。



かくいう私も言葉で色々と表現していますが、言葉の限界は常に感じていまして、動画を見たり、文章を読まれている方も、言葉だけでなくその背景に在るものを感じ取っていただけば幸いです。



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