佐藤宗一さんとの対話  ~無心とあるがままに~

無境  佐藤宗一さんとの対話、第3回目ということで、しばらく継続する予定ですが、佐藤さん本日もよろしくお願い致します。



佐藤  よろしくお願いします。



無境  前回からですね、事前にある程度テーマを決めてお話をしていくことにしましたが、今回はまず無心になるということ、無心といことについてですね、よく言われることなんですが、瞑想で無心になるとか、ノーマインドとか、これは色んな本でも書かれていることですが、ノーマインドはすごく大事で、それで在ることが覚醒とか言われます。



私も無心で在るとか、ノーマインドとか、色々と聞いてきて、それは確かに大事なことだと思うんですけれども、何か誤解されてとらえられていると言いますか、誤解を招くところがあるという感じがしているんですけれども、その辺りのことを今日は佐藤さんとお話しできればと思います。



佐藤さんも書籍で無心とかノーマインドについて書かれていたり、語られていますが、この無心、ノーマインドということについて、佐藤さんはどのようにお考えでしょうか?



佐藤  そうですね。瞑想するとなるとよく無心の境地になるとか、それが理想的と言われていて、私も瞑想を教えていると「いやあ、色々と考えちゃいました」とか「思考ばかり出てきます」というように無心の状態を乱すものがあると、あまり良い瞑想ではないと思ってしまう。



そして無心の状態で在ると良い瞑想というイメージがあると思われますが、ではその無心とは一体何なのか?というところなんですが、そもそも私がよく言っている本当の自分とか、存在とかそれ自体は無心なんですね。



考えが出ようがない場所なので、そこにいると無心で在るという言葉が理解できないんです。そもそも普通が無心だから。



でも例えばマインド的な発想からすると、無心になることが良いとなってしまうんですね。確かに無心になれるんですけれども、でもそれは思考が出るのを抑えている状態とも言えるわけなんです。



そして例えば存在とか、本当の自分はそもそも思考とかが無いところなので、思考が出ないようにするものでもないんですね。



同じ無心なんですけれども、ニュアンスが違うというか、立場が違うと言いますか、同じ無心という言葉でも、ちょっと捉え方が違うんじゃないかなと思います。



そして瞑想で無心になるというのは、考えが出ないように抑えてるという状態だと、考えが出てくるというのが背景にあるので、ちょっと気を許すと考えが出てしまったり、そうなると「ああ、瞑想失敗した」となってしまうんですけれども。



でも存在としての無心で在る状態では、それそのもので在ればそれがすでに無心なので、無心で在ることを意識することすらなくなってくるんですね。



逆に言うと存在そのものに自分を置いていれば、別に思考が出ても構わない状態になるわけなんですよ。それそのものが無心なので。



でもそこから思考が発生することができるので、思考という作用が出ても全然構いませんよと。でも存在に自分が同化している、そこに在れば、それ自体はもう無心なので、思考を抑えようとしているわけでもなく、それの性質としてそう在るという感じになりますね。



だから瞑想の目指すところという意味で言うと、思考を抑えて無心になろうと頑張っているよりは、存在という状態になってしまえという感じですね。



その存在という状態で在ることによって、自然とそれは無心になっている、結果的に無心で在るということですね。



私がとらえている無心とはそんな感じです。



無境  ありがとうございます。私も今佐藤さんが言われたことが、自分の中で非常にしっくりくるんですけど、いくつかポイントがあったと思いますが、まず瞑想をしていて、雑念や想念が出てくると「ああ、雑念が出てきてしまった」となる。



私も瞑想会や瞑想を指導していて、そういうことをよく聞きます。



無理矢理思考を抑え込むことも不可能ではないと思いますが、それって私の経験上間違いなくドーンとその後反応が来るんです。



だから無心で在るように、ノーマインドで在るように無理に抑え込むのは非常に不自然であり、一時的にうまくいったように見えても、それは長い目で見れば不可能であるいう感じがしています。



そもそも思考が出ようが出まいが別に良いのだ、ということですね。そして出たらダメということではないのかなと。



私も瞑想をリードする立場でありながら、結構出て来るんですよ。でも出てきてもそれにも関わらず、それだ、という感覚はあるので、そういうことなのかな、という気がするんですね。



そして元々私たちは存在であり、存在であるから無心で在ろうとする必要は本来なくて、そもそもそれそのものなのに、また別のものにわざわざなろうとするというのは違うのかなと。



そこら辺が最初はわからないところですが、そういうことなのかなと今お話を聞いていて思いました。



佐藤  そうですね。無心の対極である思考も、実は存在から発生しているものなんですね。思考も素材があって音声とか、イメージといった姿形になるので、「じゃあどこから出てくるの?」ということになれば、それは存在から、ということになるんですね。



そこには繋がりがあり、思考も敵対視する必要は全然ないんです。ただ単に思考に焦点が合わさっているというだけの話なので。



後これは心のトレーニングになりますが、また存在に戻るという意図を持ってやれば、別にそれは心の中の自然な現象ですから、そんなに気にする必要はないかなと思います。



それよりも存在に自分を置いておくということを、それを意識していれば良いかなと。それがイコール無心ということになるかと思います。



無境  思考が存在とは別物だととらえがちなんですよね。何かの経典にあったのですが、存在、本来の私は大海のようなものであって、大海が波立ち、その波が思考であると。



そしてその波はどこから来たかというと大海ですね。だから別物ではないということです。



ほとんどの人が大海ではなく、波の方に焦点が当たってしまっており、そっちが私であるとしてしまっているかと思われます。



やっぱり波は大海と比較すると、非常にちっぽけなもので、でも人間とはそんなものだとされているじゃないですか。ちっぽけで常に移ろい変わっていると。



でもそれは波に焦点が当たっているからであって、私たちは本来大海である、ということが本当の意味で理解できたら、それこそがノーマインドだし、波も全体の一部であって、何ら切り離すことはできないし、否定する必要もないと思うんですけれども。



佐藤  そうですね。存在からしたら、思考があるとかないとか、そんなに問題ではないということなんですね。



要は今、無境さんが言われた例えはその通りで、波があって何が問題なの?ということになります。



ただその大前提としては、やはり自分というものは存在である、ということをちゃんと理解していないと、やっぱり焦点が思考の方に向いてしまう、思考の内容を重要視してしまうということになってしまい、重要視すると視野が非常に狭くなり、大海とかバックグラウンドがちょっと見えなくなってくる、ということはあるかと思います。



無境  やはり思考とか感情が沸き起こってきたらダメなんだ、それは無心ではない、ノーマインドではない、というような誤解はかなり根深いなと感じるんですよね。



最近は「必ずしもそうではないんだよ」というのが広まりつつありますが、やっぱりまだ瞑想に慣れていない人が、瞑想に取り組む際に「やっぱり雑念だらけで、瞑想ができません」と言う人も多くて、そこまで気にする必要もないのにと思うんですけどね。



とはいえ、私も最初はやはり気になっていましたし、その辺りの誤解はまだ根深くあるのかな、という気もしますね。



佐藤さんのところに来られる方などは、やはり最初のうちはそういう人もいますか?



佐藤  そうですね。やっぱり瞑想してもらって、「瞑想どうでしたか?」と聞くと、「いや、雑念ばかりでした」とか「結構考えていました」とか。



考えてるか寝ているかのどちらかが多いんですけど、その考えというものに焦点を当てすぎると、瞑想をしている間にどれくらい考えていたのか分析すると、あんまり考えている時間は無いんですよ。



ずっと考えているように思えるんですけれども、実は考えてはいない時間の方が、案外圧倒的に多かったりするし、考え自体をしっかり観察すると、心の中から言葉がパーッと出てきて、パーッと消えていく、それも一瞬なんですよね。よく観察すると。



だからいかに瞑想中の考えというものを観察できるかというのも、一つ瞑想という視点から見るとあるのかなと思います。


例えば無心になれないとか、在るというポジションに自分が居られないというのは、割と自分の思い込みや、今までの自分の感覚、自分はこうだ、という概念のようなものが大きくなってしまっていることが多いですね。



無境  私も段々思考が出てはダメなんだ、というのが誤解だな、というのがわかってきまして、瞑想していて色々と浮いてきても気にせずにいられて、それで良いんだと今では確信しています。



そして一切思考が出てこないというのは、人として生きていてどうも不自然だという感じがするんですね。



出てはくるんですが、それにとらわれないでいることと、自分は存在であるということを理解しておくことが大切ではないかと今は感じております。



佐藤  そうですね。やはり考えてはダメと言われると、すごく気になっちゃうんですけどね。笑い話と言うか、心理学的な話で、「絶対に猿をイメージしないでください」と言われたら、余計猿をイメージしてしまうという、そういうところもありますね。



ですから別に気にしないで、瞑想中のポジションを自分の中でしっかり持っておいて、そこに戻れる流れを形成しておくことが大事かなと思います。



無境  それと先程もあった話ですが、そういった思考なり感情なり、無心やノーマインドの対局にあるとされますが、それを無くしてしまおうとする人もいますが、それは絶対にできませんね。



OSHOが言っていたと思いますが、多くの人はマインドに支配されている状態ですが、マインドを無理に殺してしまうことがノーマインドではない、という趣旨のことを言っていたという記憶があります。



それを聞いて私は「やはりそういうことか」と納得した覚えがあります。



佐藤  マインドが無くなっても、最高の状態にいるわけではないということですね。



だからマインドを無くすことばかり気にしていると、それがあるか無いかで判断してしまいますが、そういうことではないということですね。



無境  瞑想が深まっていって、「本来の自分はこれだ」となってきたら、それこそがノーマインドであるし、無心だし、思考一切無しということではないんだという、別にあっても無くても良いんだ、ということですよね。



これは最初から言葉で説明してもわからないところではないかなと思われますが、そうは言ってもねえ、となってしまうかなと。



佐藤  これは説明だし、言葉なんでね、信じるか信じないかの話になってしまいますが。



でも自分で確かめてみるというのが良いですよね。瞑想で本当にそうなのか、ということを確かめる。



私もそれは必ず推奨しているんですけれども、私の言ったことをそんなに鵜呑みにしたり、信じ込んだりしないで、それを自分で確かめてくださいという風には言っています。



それで確かめてわかったことが自分にとっての真実なので。



そしてそれに対して私も色々とこうではないか、ああではないかと指導として言うかもしれないけれども、それが終着点ではなくてもっと積み重ねていくものなんでね。



無境  やはりその指導してくれている先生から言われたことを、鵜呑みにしてしまう人も結構いるんですよね。



そういう傾向も多くの人にあるかな、という気がします。



例えば「佐藤さんがこう言われていたからこうしなきゃ」とか。



「私の言うことを鵜呑みにしないでくださいね」と私もよく言うんですが、それと対極にあるのがカルトでして「私の言うことを信じなさい!」「私の言うことを信じなければ解脱できない」とかもっとひどくなると「信じなければ地獄へ堕ちるぞ!」などと言う。これは本当にやってしまっているんですよ。カルトではね。



教祖や代表がこういうことを言うんですが、周りの信者もそれに同調しますね。ちょっと違うことを言う人がいると「あなたは何てことを先生に対して言うんだ!」といった同調圧力をかけてしまう。



それは無心、ノーマインドどころか、完全にマインドの極みだと思いますね。



佐藤  自分で確かめて、自分でこうだとわかることが、これからの時代の流れで、今までは大勢でやっていくという、今の宗教とかもそうですけれども、教えがあってそれを伝える人がいて、それを学ぶということでいくという。



それはそれで色々と機能していく点もあったと思いますが、もう少し一人一人が自分自身でわかる、理解する、極端なことを言えば一人一人がキリストになっていく、ブッダになっていく時代になっていくこと。それが人類の精神的な進化の方向かなと思います。



ですから自分で確かめて、自分で理解して欲しいと思いますね。



無境  それは非常に大事ですね。私も今佐藤さんが言われたことで、人類の進化という言い方をするならば、そういうことであると思うんですけれども、今まではトップのカリスマがいて、そこに信者が付き従っていき、そこで学んだり、目覚めていくこともあったでしょうが、それの弊害も色々とありましたよね。



どうしても依存してしまったり、本来は自分で考えて、自分自身で落とし込んでいくことが大切だと思います。



全く自力だけで行くのも無理がありますが、集団だと色々とカルト化してしまったりとか、そういう問題が生じるかと。



集団でアセンションしたりとか言われますが、集団ではなく一人一人が目覚めていくことかと思いますね。



佐藤  そうですね。私も一人一人が目覚めていくことでないと無理じゃないかな、という感じがします。



それは地道な話で、最初はすごく小さなものかもしれませんが、それが徐々に増えていけば違ってくるだろうと。



一人一人が理解している集まりと、学んだことをただ信じている集まりだったら、やはり一人一人がブッダだったり、キリストだったりする集団の方が、最終的には集団としても強くなっていくのではないかと、昇華していくんではないか。



本当の意味でのアセンションはそういうことではないかと思いますね。



無境  そうですね。アセンションも、巷で言われているものとはちょっと違うかなという気がしますね。



今出てきた話もとても大事な点だと思いますが、その話はまたいずれするとしまして、無心ということに関して色々とお話ししてきましたが、それに繋がる題材かと思うんですが、よく「あるがままに」というラマナマハルシの本のタイトルにもなっていますが、あるがままの自分でいること、というトピックですが、あるがままにとかあるがままの自分で在るとはどういうことなのか、この辺りを佐藤さんはどのようにお考えでしょうか?



佐藤  そうですね。あるがままという言葉は、ちょっと範囲が広くなってくるので、あるがままの自分となると、その自分とは一体何なのか?ということになってきますね。



例えばそれが個人だとすると、あるがままの自分と言ったならば、あるがままの自分の性格とか、自分の能力とか、考え方とかね、そういったものが自分のあるがままで、それを晒してそのままの自分で生きていきます、といったような捉え方になってしまうと思うんですね。



でも自分というものを、例えば存在というものとしていくと、先程の無心と同じようにちょっとニュアンスが変わってきて、素の自分ということですね。



色んな自分にくっついている性格とか考え方とか、それらをとっぱらった何にも無い状態の、本来の原初的な自分とでも言いますか、それもあるがままの自分と言えるわけですね。



個人的な自分は目に見えるもので、性格や考え方とか、それらは言葉にできたりするのでわかりやすいんですね。



だけどあるがままの自分というものは存在なんですよ、と言われてもピンとこないですね。

その辺りはラマナとかも言っているかもしれないですけれども。

そこら辺を知らないと、あるがままも誤解を招いたりもしますね。



無境  そうなんですよね。このあるがままという言葉も、非常に誤解を招きやすいものでして、一般的にはありのままなどと言われ、数年前にはありのままのという歌が流行ったりもしましたが、あれは誤訳なんですよね。



Let  It Goというのがありのままと訳せるかと言えば、ちょっと違うかなという話もあります。



あの映画の中だと、今まで押さえつけていたものを「もう私は自分を表現して良いのよ」ということでした。



それは確かに素晴らしいことですが、存在としての自分、本来の自分というところから来るものではなく、エゴやマインドを曝け出して、「私はやりたいようにやる」というようにとらえられたところがあるかと。



あれであるがままとかありのままが、エゴ剥き出しで好きなようにやる、というように本来のものと全然違う意味合いとされているような気がするんですね。



この辺りは、やはり言葉が曲解されて伝わっているかなという気がしますね。



佐藤  そうですね。あるがままで自分になるとかね。エゴを解放するみたいになっちゃってますね。



その結果どうなるか?まあ自分はいいかもしれませんが、周りはいい迷惑ですね。



そしてそれが結果的に跳ね返ってきて、あまり良いことはないとなりかねないですね。



無境  やはり真のあるがままにではないですよね。エゴ、マインドが中心になっていて。

それはまだエゴに支配されている状態で、まだ全然あるがままにではない状態です。



そういったものから解き放たれていくのが、真のあるがままだと思うんですね。



佐藤  そうですね。存在とか本当の自分には個人性というものもないので、解き放つものもないですね。それそのものなので。



ただやはりそこはわかりにくいところで、非常に理解が難しいかな、という感じがします。



ラマナなどはすでに知っているので「あるがままでいなさい」と言いますが、それはラマナが完全に理解していることなのでそう言いますよね。



だけどそれが本当に人に伝わるのか?というのが、存在とか本当の自分がわかっていないと、「ああそういうことですね」とはなかなかならないです。



無境  ラマナやOSHOとかの本にもありますが、その時話している相手とか、聴衆に対してのものが本となって誰もが目にします。



そうするとその時の聴衆に対してのものが、言葉だけを聞いて「ああそうか。あるがままにいないと」となって、それを曲解してまだその段階ではない人が、あるがままにを表面だけで理解してしまう、というようなことがあるかな、という気がします。



どの対象に向けてのものかということを、本来は理解した上で本を読まないといけないですが、なかなかそれも難しいところではありますが。



佐藤  あるがままにというのは良い言葉ですが、ラマナの本などに触れている人は、そこのところを何となくでもわかっていると思いますが、そこのところがわからないと、あるがままにという言葉もなかなか使えないですね。



無境  ラマナの場合は、完全にそれであったのでそのことをダイレクトに伝えますが、一般人はほとんどの人が、それを聞いただけではわからないだろうし、そういう人を想定して話していたとも思えないですしね。



その辺りを本来はきちんと読み解かないといけないですが、できているとは言い難いですね。


その辺りはラマナの言葉をきっかけに、どういうことなんだろう?とその人自身が探求していくしかないかなと思いますね。



ラマナの言っていることと、自分が考えているあるがままは、どうもズレているな、ということがわかればね。それはそれで一つのきっかけにはなるので。



無境  それがきっかけとなって、そちらに向かってくれれば良いんですけどね。誤解してやりたいようにやって、どこかで頓挫して考え直してくれれば、それはそれで良いのかな?という気もしますが。



佐藤  そういう例えば悟りとか、覚醒とかそういうことは、すんなり行くことはまずないんですよ。



色々と壁にぶち当たりながら、そこらを彷徨いながら、大枠でそちらの方へ向かっていくというところがあるので。



だから最初は色々と間違えたりね、それでも私は全然構わないと思いますし。



ただ本当のことは、真実とは一体何なんだろう?という疑問と言いますか、それを持っておく必要があって、その疑問を持ち続けることが、人間の最も優れた能力の一つなのではないかと思います。



無境  それは私もそう思うんですけれども、疑問を持つということが、そういった本質的なことにおいてとても大切だと思うんですが、師匠の言うことを一切疑問を挟まずに、ひたすらやっていく、ということもありまして、それもまた一つのやり方とは思うんですが、その一方それが行き過ぎると、疑問を押し殺してしまうんですね。



それによって本来ならその疑問をきっかけにもっと開かれた方向に行けたかもしれないのに、それを押さえ込んでしまうケースがあるんですね。



案外伝統的なやり方でも、そういうことはあったような気がするんですが。



佐藤  そうですね。そのようなことは、本当に昔のことで、言い方は失礼かもしれませんが、まだ知恵の足りない人達に対して、何を信じて良いかも何もわからない人々に「私を信じなさい」と言うと。



例えばキリストがそう言ったとして、それはまだ意味が通じる話ですね。



だけど今は色んなことを学べるようになって、一通りの色々な知識がある人にそういうことを言うのは、自然発生的に生じる様々な疑問を削いでしまうことになりますよね。



そうすると昔の伝統的なやり方は、ちょっと今と状況が違っているということがあるので、やはりそういう点に対して、教える側が進化していかないと、伝統的なことにこだわりすぎていると、人類全体の進化が頭打ちになってしまうと思います。



無境  私もそう思います。とにかく疑いを持たずに信じろというのもそうですし、それと仏教で六道輪廻というのがあり、悪いことをしたら地獄へ堕ちるとか、良いことをしたら天に上がるんだよとか、仏の教えを信じて念仏を唱えていれば極楽浄土に至れるんだよとかですね。



それはその時代においては必要であったと思いますが、ただこの現代において、例えばカルト団体などは、「お前そんなことをしていたら地獄に堕ちるぞ!」など信者に言って、それがずっとトラウマになって団体や教団から抜け出せない、ということがあるんですよ。



これは外から見たら馬鹿みたいに見えますが、当人からするとものすごく深刻な話で、そういうことを鵜呑みにしてしまう側にも問題があるかもしれませんが、やはり指導する側が未だにそんなことを言っているとするならば、こういう言い方はしたくないですが罪だと思うんですよ。



佐藤  今はちょうど狭間と言いますか、転換期だと思うんですよ。ここからまた新しい教え方とか伝え方が出てくるところなのではないかな、という感じもします。



そういうのはもう古臭いと、多くの人がわかってきているのでね。



それを突破する何かがまだ見えてこなかったり、掴めなかったりするで、仕方なくそこにいるということもあるのかな、という気もしますね。



無境  そうですね。宗教やスピリチュアルでもそうだし、一般社会でもやはり旧態依然とした体制やシステムにしがみついている人達が多いんですよね。



ですが色々なものが崩壊し始めているじゃないですか。宗教や精神世界でもそうだし、一般社会でも資本主義のシステムが少しずつ綻び始めていて、それが段々明確になってきているんですが、それ以外のものがまだハッキリしていないから、どうしても多くの人がまだしがみつく。



それは精神世界でもそうだし、一般社会でもそうですね。



本当は先ほど佐藤さんがおっしゃったように、今は過渡期だと思うんですよ。でもその時期って結構混乱してしまいますよね。



佐藤  そうですね。一つの固定概念をぶち壊して新しいものに移行するというのは、非常に大変なことなので、それは歴史的に見てもですね。まさしく大変動の時期になりますから。



そして人類という視点で見ると、非常に長いスパンで起こっていることなので、何千年や何万年ともしかしたらかかることかもしれませんね。精神的な成熟が段々できてくるのは、そういうことかもしれませんね。



無境  まあ、今の時点ではそうかなあ、という気がしますね。



今もお話がありましたが、無心やあるがまま、ということにつながってくることだと思いますが、やはり抱え込んでいるものをぶち壊さないことには、真の意味での無心やあるがままということは起こり得ないと思いますね。



佐藤  そうですね。本当にラマナが言っているように、存在とか在るというところが、その核になってくるかなと思います。その古い概念に代わるものとして。



それが次第に育っていくのではないかなと思いますね。



このことを伝えるのはなかなか難しいですけどね。



無境  やはりしがみついているものをぶち壊していくのは、かなりの苦痛を伴いますからね。そこから逃げてしまうことも多いですよね。



佐藤  そうですね。わかっていたとしても「そうは言ってもねえ。。」となってしまう。

人は旧態依然とした、保守的なものがありますから、そっちに100%全面的に行ってしまって良いのか?というのが心の葛藤として起こりますよね。



無境  ただそれを経ないと無心やあるがままは起こり得ないですよね。そのことをつくづく実感しているところです。



ただ私も散々そういうことを経てきているから、わかってはいるんですが「ああ、また来たか」ということを繰り返していますね。



その辺りは何度起こっても、すんなりと受け入れられないものですけどね。



佐藤  大変だと思います。でも方向が見えていると、ブッダとかラマナとかキリストもそうですけれども、そういった存在のおかげで何となく方向が見えているので、それが救いと言えば救いかなと思います。



無境  そうですね。それが救いとなっていますね。

色々とお話しさせていただきましたが、今回はこれで終わりたいと思います。

佐藤さんどうもありがとうございました。



佐藤  どうもありがとうございました。


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