自分自身に気づいていること  〜サップの体験より〜

私は一人で過ごすことも多いですが、退屈だとか一人で何をしていいかわからないとか、一人で寂しいとか、そういうことはほとんどありません。



読書をしたり、音楽を聴いたり、映画を見たり、自宅でDVDやネット配信で見ることもあるし、映画館に行くこともありますが、一人で退屈することもないし、一人が寂しい苦しいということもありません。



また瞑想や内的真我の探求をしていることも多く、一人で瞑想しているとどんどん内側に向いていき「本来の自分の在り方はこういうものだなあ」ということを理解できます。



そんなわけで、自分にとって一人で過ごすことは楽しいことでもあるし、それはごく自然、当たり前なことですね。



一人でいると退屈だとか、どう過ごしていいかわからない、という声を聞くこともありますが、私にとってはそういうことは無縁です。いくらでも過ごしようがあります。



今は音楽を聴くとか瞑想するとか、体を動かさないことについて言及しましたが、体を動かすことも時にはやっています。



以前から水泳をしていましたが、数年前からSUP(サップ)というものを継続しています。



サップとはスタンドアップパドルボードといいまして、サーフボードに乗り、パドルを漕いで水上を漂ったり進んでいくものです。



それをやっている人を数年前に見まして「これは楽しそうだな」と思い、始めてみたらすっかりはまってしまい、今では大抵ひと月に一度のペースで主に海ですが、時には湖で行うこともあります。



そして広い海や湖の上にボードに乗って立ち、パドルを漕いで自分のペースで進んでいきますが、これが何とも形容しがたい解放感、心地よさがあり、これはどんなに優れた文筆家、例えば村上春樹のような優れた文章家の方が、サップをすることでこんな解放感があるとか、技巧を凝らして巧みに文章で表現したとしても、実際にサップを行って生じる解放感や心地よさなどは、実際に経験しなければ決して正確に伝わることはないでしょう。



これはどんなことでもそうですけどね。実際に取り組んでみなければ、その神髄を掴むことはできません。



サップをやっていると、いつも心地よい解放感がありますが、特に海は常に良いコンディションでゆったりと心地よく過ごせるわけではありません。



強風が吹いたり、波が高くなったり、炎天下でものすごく暑くなったり、そういった状況となることもよくあります。



こういう時はのんびりと「サップは心地よいなあ」としているわけにもいかず、風が吹いてきたらそれなりの対応をしなければいけないし、波が高くなればボードの向きをどうしたらいいかとか、座った方がいいかなど気をつけないといけないし、暑くなったら水分補給をしっかりとしなければいけないとか、気づきのアンテナを張り巡らせておき、それなりの対処をする必要があります。



こういう時に単純に「ああ心地よいなあ」としているだけでは、自分の今置かれている状況を把握、理解できず、対処もできず、水に落っこちてしまうくらいならまだいいですが、下手したら事故にもつながりかねません。



きちんと対処できないとどんどん流されてしまうこともありますし、炎天下の中で漕いでいて、水分補給がきちんとできずに熱中症になってしまったことが、かつて私もありました。



これは準備不足もあるし、水分補給が足りなかったことや、自分の状態を過信して、本来なら休むべき体調であったにも関わらず、まだまだ行けるだろう、大丈夫だろう、とちょっとサップも慣れてきたので自分の状態を過信してしまいました。



これは少々痛い目にあいましたが、良い教訓となりました。



そしてサップをやっていて気付いたことですが、単にのんびり穏やかに楽しむだけでなく、状況に応じて自分の状態をきちんと理解する、体調やメンタルの状態などを把握、理解しそれに応じた対応をすることが非常に大切だと思い知りました。



瞑想でも気持ちよい、心地いい状態、エクスタシーに浸っている。それは本人にとってはすごく気持ちよいし良いことではありますが、本当の自分に気づく、目覚めていくにはそれだけではいけないですね。



しっかりと自分自身の状態を理解しておくこと、自分自身を知ること、それが瞑想や真我探求において大切なことです。



内側に意識を向けていくと、静かで穏やかな時もありますが、すごく波が高い状況であるとか、ものすごい強風が吹き荒れていたり、炎天下で疲弊するような状況、これらは比喩ですが内面ではそういうこともあるんですね。



これは真剣に瞑想したり、内的探求に取り組んできた人は、多かれ少なかれそのようなことに直面したことはあるでしょう。



ですから内側に向いて、単に良いことばかりではありません。心地よいこと、開放感ばかりではないのです。



自分自身の状態を正確に理解すること、それがやはり非常に大切なことです。



フーマンという覚者がいまして、本も何冊か出ていますが、フーマンは単に瞑想を深めて意識が止まっても、それだけでは真の目覚め、覚醒ではないと言っています。



正確には自分自身を理解すること、これが大切だ。ということを語っております。



瞑想で一時的に深く入っていって、ディアーナやサマディと至ったとしても、そこから出てマインドが動いていてはいけないということです。



単に止めるだけの瞑想では、一時的にマインドが静まった状態で、雑念、想念がまた生起してきます。



やはりそこでしっかりとした気づき、理解というものが必要になってきます。


サップでもただガムシャラに進んでいるだけではなく、きちんと海や湖の状況や、天候や自分の状態などをしっかりと理解しておく必要があります。



サップでよくあるのが他にもサップをしている人が近づいてくるとか、ウインドサーフィンをしている人が来るなどあります。



慣れているとはその際に上手く避けるとか、進む時は進む、止まる時は止まるなどができますが、初心者はまず状況判断ができません。



こういう時、進めばいいか止まればいいか、自分の置かれた状況を正確に理解し、対処することが初心者にはなかなかできません。



瞑想や内的な探究でも、初めのうちは色々なことが起こり、内面の強風であるとか、高波であるとか、そのようなことに直面するとどうしていいかわかりません。



風に煽られて自分自身を見失ってしまうということにもなりかねません。



そこでやはり自分自身を見失うことなく、しっかりと気づいている、理解しておく、覚めている、要は自覚ということですね。自ら覚めているということです。



この反対が不覚ですね。覚めていないということになります。



自覚や不覚が今では違う使われ方をしていますが、元々自覚も仏教用語でして、文字通り自ら覚めている、不覚は覚めていない状態です。



やはり自ら覚めて自覚していること。例えば自然の中で行うスポーツでは、自分を見失ってしまうことは非常に危険です。



それは瞑想や内的な探究でも、自分を見失うのは、実は思っている以上に危険なことでもあります。



どこに行ってしまうかわからないとか、本当ならこの方向に進めば的確に覚めていくことができるのに、全然違う方向に流されていき、覚めるどころか、隠れていたものが出てきて乱れてしまい、魔境と言われるものに陥ってしまうということもあるのです。



それはやはり自覚ができていない状況です。



それによって魔境とかそのような状態になってしまい方向がずれてしまうと、自分ではなかなか理解できません。



下手に自信があったりすると、アドバイスされてもそのことが理解できずに「いやこれでいいんだ!」と反発したりします。



「こちらに向かえば目的地に辿り着けるし、戻ることもできるけど、そちらに行ってしまうと戻ることもできないよ」と言っても、それが自分を正確に理解できている人には自明でも、見失っている人には通じなくなってしまいます。そこはやはり気を付けなければならないと思います。



私は瞑想や内的探求を長年やっておりますが、サップもひと月に一回という少ないペースではありますが、継続しているとそれなりに上達してくるし、色々なことがわかってきます。



体を動かしていても内的探求に通ずるところがあり、お互いに補完しあうものがあると私は感じています。



皆さんは自分に合ったものを見つけてそれを実践していただきたく思います。



ひたすら静かに座って瞑想するもよし、普段の生活の中で真我探求を行い、自覚をしていくもよし、そして体を動かして気づいていくこともありますし、一つだけの決まりきった型はないので、最終的には一つに収斂されていきますが、過程においては個々人に応じたやり方、在り方があるのでそれを見つけて取り組んでいただければと思います。




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