偽りの私を出さずに
これは数か月前の話ですが、長年の友人であるCさんと、度々zoomで話していまして、お互いに忌憚なく意見を交換して、気づきが深まるのですが、Cさんが瞑想において、私と一緒に行っても特に気づきが深まったり、静かで意識が静寂になるといったことがない、それゆえ私と一緒に瞑想することに意義を見出せない、というようなことを言っていました。
以前からそういうことは言われていまして、なんでかな?と疑問でした。
対話ではお互いに良い感じで意見を交わし、時にはぶつかることもありましたが、その後はお互いに解放が起きて、気づきが深まったり、新たな気づきが生じたりということを繰り返してきましたが、対面したりオンライン上で瞑想する、それによっては特に何もない。
対話ではお互いに良いことがあるのに、なぜ瞑想ではそれがないのか疑問でしたがようやくなぞが解けました。
私がCさんと話している時にはいいのですが、瞑想では私がCさんに対して教えてあげているんだ、指導をしているんだという念がビンビンに伝わってきてしまう。そういった人の思念、念というものにCさんは相当敏感なのです。
だからあなたと瞑想していても、何も良いことがない、瞑想する気になれない、とハッキリ言われました。
そう言われたことで、私の強すぎる思念がCさんに伝わってしまっていたことに気づき、そのことを念頭に置いて、Cさんと一緒に瞑想をするのではなく、指導をするという意識を捨てて、ただ自分自身が一人で瞑想するという意識で座り、ZOOM越しに瞑想してみました。
そして終わってからどうだったか聞いてみると、今までと全然違い、教えてやるんだ、指導してやるんだ、引き揚げてやるんだ、そのような念が今まではあったけれども、今は全然それがなく、あなたがそこにいなかった、わたしというものがそこになかった、と言われました。
以前からそのような思念をしてしまっていると、それは所詮エゴの働きであり、それでは本来の瞑想ではない、ということがわかってはいましたが、長年の友人だと他の人と瞑想するのと意識の状態が違ってしまい、余計な思いが強くなればなるほど瞑想にならなかったのです。
そのことに今回ハッキリと気づき、ただ一人で瞑想するという意識でいると、伝わるものが全く違いました。このことは私にとって非常に大きな出来事でした。
以前にCさんが他の瞑想指導者のところに行き瞑想すると、その人は自分というものがなかった、と言っており、私もその人のことを少し知っていましたが、「何でその人のところでは私はいない、となって、私と一緒では我があるとなってしまうんだ?」と不思議だったんで、その指導者の人も、普段の言動を見ると、とてもそこに我がないというように見受けられなかったのですが、どうやら特殊なやり方をしていたようで、それによって自分がない、という状態が形成されていたということでした。
それに対して私の方は、特殊なやり方をとっていたわけでもありませんが、Cさんと相対するとき、自分の余計な思いが出てしまい、偽りの自分で瞑想をしていたのでした。
よく言われる「私は在る」ではなく、偽りの私がCさんと瞑想する時に出ており、「この私があなたと瞑想しているんだ、指導をしているんだ、あなたをこの私が引き上げてあげるんだ」とひどく私が、俺が、我が、というものが出ていたのでした。
そしてそのことにどこかしらで気づいていたと思うのですが、それを見ないようにしていた、封じ込めていました。
そのことにハッキリと気付かされまして、ちょっと意識の置き所を変えたら「今までと全く違う」と言われました。
Cさんはそういう時にお世辞を言うような人ではなく、本当に一緒に瞑想をして「偽りの私がない」という状態になったのだと思います。私の方でもそれを感じていました。
私はずっと失敗をしていましたが、そのことに気づけて本当によかったです。
瞑想や霊的指導者の多くは、大体最初のうちはみんな謙虚に、自分というものを出さずに指導をしていますが、だんだん色々とやっていくうちに、周りから称賛されたり、崇め奉られたりしていると、「私がやってあげているんだ」「俺が引き上げているんだ」「私の言うことを聞きなさい」というようになってしまう。
それを直接言ってしまう人もいるし、言葉に出さなくても、無意識下でそういったものが滲み出てしまう人もいます。
そういうものは相手に伝わってしまいます。
それをハッキリ受け取ってしまう人もいて、それによって離れていったり、私とCさんのように悪い意味で何も起きないとか、かえって害になってしまうということも起こり得ます。
自分が指導的立場にいると、ついつい自分が上で相手が下と見てしまいがちですが、これは完全に二元の状態で、非二元となると上下というものがなくなります。
少なくとも「私があなたのためにやってあげているんだ」という思いを放棄する必要があります。
私はそういう思いがあることに気づいて、それを放棄するようにしました。
それによって自分自身の瞑想も深まるし、瞑想会や沈黙の会というものを行なった際にも、深い沈黙、静寂が訪れて、「私は在る」がよりハッキリしたと言ってくださった方もいて、周りに伝わるものも全然今までと違いました。
ここで「瞑想の体験を伝えよう」と意図してしまうと、私がCさんに対して行っていたように、偽りの我、自我というものが出てしまいます。
そうではなくて、ただ座る、ただそこに在る、それによって自分自身の瞑想なり、気づきなり、迷妄からの目覚めもよりクリアになってきます。
これが「私が瞑想しているんだ」「私が伝えているんだ」という思いがあると、それがどんどん大きくなっていき、周りに与える影響も悪いものとなってしまいます。
この辺りは多くの人が頭ではわかっているはずですが、色々とやっていくうちに次第に盲点となっていき、自我の罠に落ちてしまい兼ねないので、充分に気をつけるに越したことはありません。
このことに改めて気づかせてくれたCさんには、本当に感謝の念に堪えません。
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