瞑想について ~余分なものが落ちていく~

私はシフト制の仕事を普段しておりまして、体内時計がどうしても狂ってしまうんですね。



そうするとどうしても心身に悪影響が出て、人間世界に身を置いていると、どうしても肉体やエネルギーの影響を受けます。



人間の肉体や神経は、かなり体内時計に支配されてしまい、私の場合表情にも出ますね。



非常に疲れ切った表情になってしまいます。そうなると考えることも、大概ロクなことを考えなくなります。



そして精神的にも落ち込んだり、神経が参ってしまうということがあります。



それが瞑想に取り組むと、自動的に調整され状態が改善されます。



私が瞑想を行うのは、心身の状態を整えることを意図しているわけではないですが、結果的に肉体の状態も整うし、意識も落ち着いてきます。



これらはあくまでも瞑想の副産物であり、私が瞑想を行うのはただ瞑想する、瞑想状態で在るということが一番です。



一般的には瞑想は、座って静かにして、座禅やヴィパッサナーやマントラを唱えるなどの瞑想技法がありますが、それらを行うことが瞑想をすることだとされていますが、厳密に言うと瞑想状態に在るために座り、じっと観察したりマントラを唱えたりします。



それらはあくまでも技法であって、瞑想状態に在る、本来の自分自身で在るということ。そのために行うものです。



ただ一般的には、人は何らかの目的を持ち、そのために瞑想することになりますが、それが悪い事はないですけれども、本来の瞑想は最終的にはそれらも手放していきます。



アジャシャンティというアメリカ人の精神的、霊的指導者の方がいます。



私は個人的に欧米の霊的指導者の本を読んでいて、合わないことが多いですが、アジャシャンティの本は非常に参考になりました。



それはなぜかいうと、アジャシャンティは伝統的な禅などがベースにあるのが、自分には合うのかと思います。



そしてアジャシャンティは、宗教や精神世界、スピリチュアルの良い部分だけでなく、闇の部分であるとか、こういうことも起こるから、そこは気をつけた方がいいとか、そういったこともきちんと説明しているんですね。



本にも書かれていますし、動画も日本語の字幕付きで見られますが、良いことばかりでなく、こういうことに注意する必要がある、といったことも述べられていて、私は非常に好感を抱きます。



そのアジャシャンティが、本来の瞑想は、「瞑想というものは、無目的なものが本来の瞑想である」といったことを述べており、私は「ああこれだ」と腑に落ちて、無目的の瞑想を普段から心がけています。



もちろん多くの方は、最初から完全な無目的というわけにはいかないでしょうから、何らかの目的を持って瞑想に取り組むことで最初は良いと思います。



しかしもしも本当に瞑想を突き詰めていって、幻想、マーヤから目覚めていく、本当の自分に目覚めていくことで瞑想に取り組むのであれば、目覚めようとか覚醒しようということも強く意図することなく、ただ自然に無目的で瞑想するということになってくると思います。



ですが最初からはそういうわけにいかないので、初めは目的を持って行うことになりますが、それにもあまりとらわれないことが大切です。



そして瞑想することで何々を得る、能力を得るとか、仕事の効率を上げるとか、リラックスするとか、何らかの利益を求めて行うのはあくまでも最初の段階であり、的確にプロセスが進んでいけば自然に落ちていきます。



高野山別院が都内にあり、今はコロナ禍でどうなっているかわかりませんが、真言宗の代表的な瞑想である月輪観や阿字観という、イメージを使った瞑想ですが、それを定期的に行っていて、瞑想の後に法話があり、もう10年以上前に私は何度か行って、そこで瞑想して法話を聞きました。



そこの住職の方が非常に雰囲気も良く、語られていることも納得がいくものでした。



その方が法話で語られていたのは、「瞑想は何かを加えていくのではなく、今の人々の常識からすると、何かを得る、加えていくことが中心になっているけれども、瞑想はそうではなくて余分なものを落としていく、落ちていくものです」といったことを言われていました。



それを聞いて私は「まさにそれだ」と納得しました。



ですからとっかかりとしては瞑想をして何かを得ようというのは良いですが、ずっとそれでは本来の瞑想ではありません。



自然に目的など落ちていき、ただここに在る、というのが本来の瞑想、本来の在り方です。



ただ最初から理想的な在り方で在る、というわけにはいきませんから、まずは何らかの目的意識を持って良いです。



そして本当に突き詰めていくのならば、それも手放していく、自然に落ちていくということになっていきます。



私も当然初めのうちは瞑想や修行をすることによって、この私が覚醒するんだ、悟るんだ、そして人々を助けていくんだ、というように中心に私が、とか自分がというものがありました。



ここは盲点でして、自分では崇高な目的があるのだから良いのだ、としてしまい、この私が目覚める、私が人々を救う、救済する、という思いにとらわれていました。



これもエゴの罠であり、幻想、マーヤーですけれども、次第にそういうものも落ちてきて、自然にそれそのもので在るようになりつつあります。



もしも悟りだ、覚醒だと言っている人が、何か余分なものを付け加えていたら、その人の目覚めや悟りや覚醒というものはどうなのだろうか?と眉に唾をつけて見ておいた方が良いかと思います。



真に目覚めてくると余計なことを言わなくなってくるものです。



アセンションがどうであるとか、別の宇宙や他の世界から何かが降りてきてどうだとか、そのようなことは本来マーヤー、迷妄から覚めてきたら、そういうことを言わなくなってくるはずです。



瞑想が進んでくると余分なものがどんどん落ちていきます。これは無理に落とそうとするのではなく自然に落ちていきます。



無理に落とそうとしている段階では、それはまだ途上であろうと。



落とそう落とそうとしているとずれていってしまいます。



私もこのようなことが本当にわかってくるには時間がかかりました。



瞑想も短時間でパッと「ああわかった」ということは普通はあり得ません。



余程の天才は別ですが、そのような天才というのはそうはいません。



だからちょっと座って「ああわかった!私は瞑想ができた!」とか悟ってしまった、わかってしまったというのは飽くまでも一瞥であって、それはそれで良いですが、やはりある程度の時間はかかるかなというのが私の実感です。



最後になりますが、瞑想不要論を非二元やノンデュアリティの人達で主張する人がいますが、瞑想が不要の方もいらっしゃるとは思いますが、一切瞑想が不要で、それによって目覚めていけるのか私は疑問です。



逆に瞑想をしなければ悟れないと主張をする人もいますが、それもまた極論です。



人それぞれ色んなタイプがありますし、その人それぞれに応じたものがあります。



合う合わないなどありますし、みんながみんな同じというわけにはいきません。



座って静かに瞑想するのが合わない人もいますし、瞑想をしなれば悟れないというのは、ちょっと極論であると感じます。



そして瞑想が不要だという人を見ていると、ある種の一瞥体験は起こっているし、中には全然勘違いしている人もいますが、どこかにまだ何かが残っている感じがしてしまいます。



ですから瞑想によって、よく自分自身を内省していくことがやはり大切だと思います。



対して瞑想至上主義という人も見受けられます。



瞑想している時は良いですが、瞑想から覚めると元の木阿弥というタイプの人もいます。



瞑想至上主義でもなく、瞑想不要論でもなく、瞑想が合う人は瞑想を行えばいいです。



私個人は色々なことをやってきましたが、瞑想が自分には合っていることが明確になってきています。



ですが「私は瞑想によって見開いてきたから、あなたも瞑想しなさい」と他人に押し付けることはしないようにしています。



最近は何人かの人に瞑想を指導していますが、着実に意識が安定してきたり、迷妄から見開かれてきている人も出てきていますので、瞑想という形で取り組むのは有効なやり方の一つであると思います。



ともかくどのようなものでも良いので、自分に合ったものに取り組んでいくのが一番です。



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