過去がどうであろうとも、大切なのは今がどうであるか

私も50年以上生きていると、色々な人に出会ってきました。その中には「自分はすでに全てがわかってしまったんだ」とか、悟った解脱した、覚醒したという人たちもいました。



その中の1人にYさんという人がいました。Yさんとはかれこれ15年ほど前に懇意にしていまして、そのYさんは仏典解釈に非常に長けており、仏典解釈だけでなく瞑想も行っており、ある時「自分は解脱、悟りに至った」と言っていました。



私はYさんの仏典解釈は非常に素晴らしいし、興味深いなと思っていましたが、それほど深くその仏典解釈を読み込むことはありませんでした。



一方解脱したということに関しては、それを鵜呑みにはしませんでしたが、それはそれとして親しくはしていました。



そして共通の友人の中に「Yさんはもう解脱しているのではないか」という人もいたのですが、私はそれについて判断を保留していました。



Yさんは解脱をして、その解脱者の知恵によって経済活動も行い、その経済活動によって裕福になり、自分だけが裕福になるのではなく、縁ある人も裕福にしていき、経済的基盤と精神的・霊的な基盤を元に世直し的なことを行っていく、と豪語していました。



「これから非常に面白いことが起こるよ」ということを言っていました。



私もその活動に誘われていたと言いますか、活動が軌道に乗ってきたらその流れに入ってきなさいよと言われていました。



私はそれに関して「果たして上手くいくのかな?」と半信半疑でしたが、どこか楽しみにもしていました。



Yさんは本当に自信満々でそういったことを言うものですから、どんなものなのかな?と思い、もし上手くいって、その流れに入って行けたら面白いな、というある種の期待をしていました。



その宣言をしてから数ヶ月後、Yさんは経済的活動を始めるとのことで、ある人に数十万円を借りたとのことで、それはビジネスを展開するために借りたのですが、どうやらそれが上手くいかなかったようでした。



私はそのお金を元にビジネスを始めていくのかな、と思っていましたが、これだけ払えばビジネスのノウハウを教えます、そのためには何十万かかります。というよくある話ですが、どうもYさんはそういったものにお金を注ぎ込んだようだったのです。



それでビジネスは上手くいかず、ダマされたのだと私は思いますが、それっきりYさんはトンズラしてしまいました。



そしてお金を貸した人が、返済期限が近づいてきたので連絡しても梨の礫と。全然連絡がつきませんでした。



埒が開かなくて、お金を貸した人がYさんの住居に直接行ってみるとすでにもぬけの殻。失踪したと言いますか夜逃げですね。



結局のところYさんは仏典解釈には長けていましたが、自分で解脱したと主張していましたが、現実生活においては大きなことをぶち上げていましたが、上手くいかなくなってトンズラしてしまいました。



一芸に秀でているからといって、全てに長けているとは限りません。Yさんは仏典解釈においては非常に優秀であっても、現実における実践が伴っていなかったと言わざるを得ません。



この事の顛末を私は目の当たりにしていましたが、Yさんがそのような事態となり残念でしたが、非常に興味深い事例だなと、冷静に見ていた面もありました。



Yさんは確かに知識も豊富で、仏典解釈も興味深いものでした。そのことには感心していましたが、解脱したとかそのような点に関しては、そこまでの確信はなかったし、この事の顛末からすると、解脱したというのも本人の思い込みだったかなと思います。



Yさんが失踪してから数年経ちますが、未だにどこでどうしているかわからないし、自分自身の修行を進めて、この世のことはもう未練がない、ということでどこかに籠るというのならそれは良いと思いますが、Yさんの場合は自分が解脱して、解脱者の知恵を元に外的な活動を展開すると大々的にぶちあげていて、それから数ヶ月もしないうちにどこかに行ってしまったということは、これは良い意味で籠ったというのではないと思いますね。



Yさんは主に原始仏典を解釈していましたが、大乗仏教や密教の考え方もベースにあり、それもあって外的な活動を展開しようとしていましたが、それも頓挫してしまいました。



そして良い意味で現実世界から離れるのではなく、そこから逃げ出してしまったということですね。それが現実です。



やはり人から数十万円という安くはないお金を借りて、連絡もせずにトンズラしてしまうのは、仏典解釈に長けているとか、修行者だ解脱者だと言う前に、まずは人としてどうかと、人間性としてどうなのかということですよね。



現実的な活動、人間世界での活動をせずに山に引きこもっているのならまだしも、Yさんは現実生活を営んでいて、現実生活をより良いものとしよう、変えていこうとしていましたが、頓挫してそこから逃げてしまい、他の人にも迷惑をかけてしまったのは、人としてどうなのか?となってしまいますね。



仮にYさんに解脱が訪れたとしても、そこから落下してしまうこともあります。自称覚醒者の人でも、一旦はその状態にあったとしても、プライドや慢や、地位や名誉権力が与えられてそこから落下することが、仏典にもそのような記述があるし、現実にそういったことはありますので、その人が「私は解脱した」と言ったとしても、言葉だけを鵜呑みにしてはいけません。その人の言動をしっかりとチェックする必要があります。



そういう人達は、ある種のカリスマ性、人を惹きつけるものがあります。Yさんもそういうところはありました。



親しくしていた時期に、Yさんとの対話は楽しかったし、仏典解釈も「この解釈はすごいな」と感じさせるものはありました。



それでもこういったことになってしまうので、単に「ああこの人は凄いな」ということだけで教えを学んだり、盲信したりしたりしないことです。



Yさんも過去においては、仏典解釈で非常に優れたものを世に出しており、瞑想修行も優れていましたが、現在はどこでどうしているかわからないと。



過去において非常に素晴らしい業績があったとしても、現在においてはそれらがおじゃんになってしまうこともあります。



逆に過去に大変な状態であったり、何らかの罪を犯したとしても改善していくこともあります。



人はなかなか変われない、ということも言われますが、それも事実である場合もありますが、それは固定されたものではなく、人は変わり得るというのも事実です。



過去にあの人はこんなに素晴らしかったという人がいます。自分自身で「俺はかつてこれこれの業績を上げたのだ」などと過去を自慢する人がいますね。



でも現在は落ちぶれてしまい、そのような人が去勢を張っていても、それは虚しいだけです。



対して「過去においてあいつはこうだった、ああだった」と否定的なことを言う人もいます。私に対しても「お前は過去においてこんなんだったじゃないか」と言ってくる人もいますが、それは確かにその時はそうでしたが、色々と失敗や人に迷惑をかけたことなど多々ありますが、それはそれとして自分を冷静に見つめ、それを改善するように気をつけているつもりです。



過去のことをどうこう言われても、現在の状態を知らないで過去のことだけを言われたとしても、それだけで判断されるとねえ、と正直なところ思います。



過去がどのような状態であろうとも、大切なことは今現在がどうであるかということです。



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