【存在の詩】 中空の竹の如く

OSHOの代表作「存在の詩」は1977年に初版が出て、80年代には絶版になっていましたが、近年復刻版が出まして、たまたま書店で見かけて購入しました。


かなり分厚い本ですが、読み始めると止まらなくなり、数日で読み終えてしまい、以前にも少し目を通してはいましたが、改めて読んでみるとこれは非常に良書だなと感じました。


OSHOのサニヤシンの方々も、日本に多くいらっしゃいますし、「存在の詩」はOSHOの代表作なので、読まれた方も多いと思いますが、まだ読まれたことが無い方は是非、読まれたこともある方も改めて読んでみると良いと思います。


「存在の詩」はタントラについて書かれていますが、ティローパというインドの聖者がいて、ナローパというチベット人に教えを伝え、ナローパから、マルパ、ミラレパと教えが伝わり、チベット仏教のカギュ派が確立されたとされております。


そのティローパの教えをOSHOがこの本で色々と解説しています。


読み直して思ったことですが、昨今の悟り系や覚醒系という人達がよく言っていることですが、ゆったりとリラックスして、何もせずただ在るということや、あなたはすでにそれなのだ、ということが説かれています。


以前の私は修行系でして、まだ達成していない自分を浄化して、自分自身を磨き上げ、高めていって解脱や悟りに到るということを強固に信じていて、その実践をしていたのですが、数年前からそのやり方、在り方に限界を感じ始め、私達は元々それなのだから、余計なことをせずに、それにくつろぐ、ただ在るという流れに乗って、かなり見開いてきたという実感がありますが、1970年代にOSHOはすでにそのことを説いていました。


昨今非二元系や覚醒系の本や教えが広まってきて、非二元やアドヴァイダで「あなたはすでにそれなのだ」ということが言われ、激しい修行は必要なく、本来のあるがままの自分にくつろげば良いといったことが伝わっています。


私は初めてそれを聞いた時に、「ただくつろいでいて、それでどうなるものか」と考えていましたが、ただ怠惰になっているだけではどうしょうもないですが、その神髄が理解できてくると、「ああそういうことなんだ」と腑に落ちてきます。


ただそれは最近になって非二元の教えが広まりだして言われたことではなく、OSHOがすでに1970年代で説いていたことだったのです。


「存在の詩」でOSHOはヨーガの道という言い方をしていますが、まだその当時は修行をしっかりとして、戒律を守って自分自身を磨き上げることで達成する、という教え、考え方が定着しており、それを元に修行を進めていく人が多かったと思われますが、「存在の詩」で説かれているタントラの道、余計なことをせず本来の自分にくつろぐという道が、理解できる人が昨今よりも少なかったのではないかと。


最近では「存在の詩」で説かれている教えが広まりだしていますが、OSHOが本当に伝えたかったことが、今現在でもきちんと伝わっているかというと疑問ではあります。


ただしOSHOはすでにそれを以前から述べており、それが細々とですが伝わってきたかと思います。


この本でOSHOはヨーガとタントラと対比をしていますが、あくまでも「存在の詩」におけるヨーガとタントラということであり、ヨーガと言っても色々とありますが、ここではしっかりと修行をして戒律を守り、自分自身を高め磨き上げる道、という使われ方をしています。


そしてそれに対するタントラということですね。善と悪、聖なるものと邪なるものという対比をせず、全てを包含し受け入れるということですね。


タントラも色々と誤解されていまして、性的なもの、セクシュアルなことに結びつけるという印象を抱いている人もいるでしょうし、そういうことを中心に説いている人達もいます。


確かにタントラにはそういう面がありますが、それはタントラのごく一部に過ぎません。


伝統的な宗教などでは、性的なことは御法度で、戒律でセクシュアルなことは戒められており、性的な交わりはもちろん思いを馳せることすらもいけないとされてきましたが、タントラではこれは良い、これはダメという区分がないということで、性的なことも活用していくと言いますか、それも受け入れていくということになります。


ただ、その点ばかり強調されると、それは本来のタントラではないだろうと思います。「存在の詩」でも性的なタントラについて触れられているのはほんの一部に過ぎません。


タントラの神髄はゆったりと自分自身にくつろいで、余計なことをせずただ在るということですね。これは言葉で聞く、読むだけでは「何だそんなことか」と思ってしまいますが、それを本当に理解するのは難しいです。

それを実践しようとしても怠惰な方向に流されてしまい、本来のタントラにはならないです。

ティローパはマハームドラーと言っていますが、怠惰に流されるようでは本来のマハームドラーにならないということです。

私が思うに背景に気づきがあった上でゆったりとくつろぐ、ただ在る、本質に留まるということですね。最終的にはただ在るも超えていくのでしょうが。


色々とヨーガやタントラなどは誤解されてもいますが、OSHOがこの本で説いていることは、まさに本質的なことであろうと思います。


後にOSHOのサニヤシンの人たちが、様々な捉え方をして誤解をされて伝わっている面もあるかとは思いますが、それはともかくこの「存在の詩」が復刻されたのは大いなる恩寵であると私は思います。


OSHOの本は膨大な量がありますが、何か一冊ということであれば、個人的にはこの「存在の詩」であると思います。


内容が易しい本ではないですが、少しでもマハームドラーの神髄を掴んでいる人ならば「これこそが本質である」とわかるでしょうし、ものすごく難しい内容とは思えません。


ですからOSHOの本が初めてという方でも、OSHOの本を色々と読んできたという方でも、これは大いにお勧めできます。


そしてここにティローパが説いてきた、マハームドラーの経文というものがありますが、非常に示唆に富んだ内容でして、その中に「中空の竹の如く」という一文があります。


「中空の竹の如く汝の体をくつろがせ、また取らず汝の心を休ませよ

マハームドラーは何者にも執着せざる心の如し  

かくの如く行ずることによって汝はやがてブッダフッドに至る」


この中空の竹というところですね、空っぽであると。


私は中空の竹の瞑想というものを教わったことがあるし、瞑想会でやってもらったこともありますが、少しこの場でこの瞑想をやってみようと思います。できる方は一緒にやってみてください。


今から私が説明するやり方は、「本来の中空の竹の瞑想と違うぞ」と思われる方もいるかもしれませんが、私が実際にやってみてこれはいいなと感じ、何人かの方にやってもらってなかなか良いというご意見も頂いたので、自分なりのやり方ですがここでやってみたいと思います。


まず中空の竹の如く自分が在るとイメージします。上から骨があり、内臓も色々とあり、多くのものが詰まっていますが、本来の私たちの在り方は中空の竹の如く空っぽです。


まず自分が中空の竹の如く空っぽであることをイメージします。そしてそのことが明確になってきたらイメージもしません。イメージも超えて中空の竹の如くただ在ると瞑想していきます。


そうするとOSHOも書いていますが、ものすごくエネルギーが流れて混んできて満ち溢れるという現象が起こることもあります。最終的にはそのエネルギーもなく、ただゆったりとくつろいでそこに在るとなります。


まずはくつろがせるところから入りますが、最終的にはくつろがせようということもなく、くつろぎそのものであり、最終的にはブッダフッド、ブッダの境地に至るとあります。


短い時間でも一緒にやってみましょう。


姿勢を正してゆったりとした呼吸をして、軽く目を閉じましょう。


そして自分自身が中空の竹の如く空っぽであるとまずはイメージしていきます。


中空の竹の如く空っぽであるとイメージできたら、中空の竹そのものであり、イメージしたり思考をすることもなく、ただそれで在ると瞑想します。


ここでは短い時間ですが、できる方はもう少し長く行ってみてください。


これはシンプルですが、こういった瞑想に取り組むことで言葉の背景にある神髄をつかみ取れると思います。


言葉では真理、真実を正確に表すことはできず、言葉を超えたそれそのものを実感していくためには、言葉を読むとか聞くだけでなく、瞑想のような実践が必要であると思います。



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