意識を鮮明に
私が普段瞑想会や故人セッションを主催していて、それらを受けられている方から質問をいただき、瞑想会や個人レッスンでは瞑想状態に入れるけれども、日常生活でその状態を保つにはどうすればよいか?という趣旨の内容でした。
私も以前は座って瞑想に入る状態と、日常生活とのギャップに悩まされていましたが、次第に瞑想と日常の区分がなくなってきましたが、どのような点に注意すれば良いか改めて考えてみました。
まずは、あまり日常と瞑想の区分を意図的になくそうとしたり、統合したりしようとする必要もなく、それを意識しすぎると瞑想状態を妨げることにもなりかねません。
そして元から区分などないのだから、そういったことを意識する必要はない、という見解もありますが、ただそれだけだといつまで経っても瞑想は瞑想、日常は日常という区分から抜け出すことが難しくなります。
非二元、不二一元というものをすぐに理解できる人もいるかと思いますが、多くの人はすぐに理解はできないので、まずは瞑想と日常の区分があることを理解し、自然にそれらがなくなっていくというプロセスをたどるのが良いかと思います。
意識をしすぎることもなく、全く何もしないということもなくということですね。
そして瞑想に深く入っていくだけだと、瞑想は瞑想、日常は日常という区分が起こりやすいようです。
もちろん瞑想に深く入り、存在にくつろぐことは非常に重要ですが、それだけだと瞑想と日常の区分が生じ安いというのが、個人的見解としてはあります。
これはそういうことはない、という方もいるかもしれませんが、自分の経験や他の人の状態を見ていてそのように感じます。
無論、全員がそうであるということはないですが、概ねそのような傾向があるかと。
ここで大切になってくるのが、気づきを保つということ、別の言い方をすれば、意識の鮮明さ、これが非常に重要です。
深い瞑想状態に入っていくと、最初のうちは混沌とした状態になることがあります。それが深く入っても意識が鮮明であることが大事です。
この気づきを保つ、意識の鮮明さというのがあるかどうかで、瞑想と日常の区分がなくなってくるかどうかが決まってくる、というように思われます。
そしてよくある話が、瞑想を行うと眠くなる、瞑想を始めると眠気が止まらず、気がついたら意識がなくなっていたということがよくあります。
これは普段の私達は意識が混沌とした状態であることから生じる現象であり、現代社会特に都会で生活をしている人のほとんどが、意識が混濁した状態であると言っても過言ではないと思います。
私達の本質はクリアで鮮明な状態ですが、日常生活でそれを見失ってしまっています。
そして私達は本来目覚めていて光り輝く存在であるということを言う人もいます。それはそれで事実ですが、そのことを忘却して混濁した状態の人が多いのも間違いありません。
普段の私達は明晰さが失われ混濁した状態であることすら気づいていないですが、瞑想に深く入っていくとそのことが明らかになってきます。
それは眠気という形で現れたり、混沌とした状態としてあったりということです。
最初は気づきというものが全くないので理解できません。眠気にずっととらわれたり、寝てしまったりします。
それが瞑想ができてくると、気づきが保たれて、意識が鮮明になってきます。
意識を鮮明にすることについては、様々なワークや、ヒーリングやセラピーといった技法を用いることが有効な場合もあります。
本来私達はクリアだから、そのような技法などは必要ないという見解もありますが、ある段階まで到れば、すでにそれそのものだから必要ないと言えますが、その前段階では有効な人はそれらを活用すればいいと思います。
ただしずっとそこにこだわり続ける、鏡があってそれを磨き続けるようなことは、それだけに時間と労力をさく必要はないですし、ずっと鏡を磨き続けて透明になろうとして、逆にいつまで経っても本質に到らないということもあるので、その辺りはやはりバランスが大事であると思います。
そしてどんどん意識がクリアになり、本来の自分の在り方になってくると、自然に瞑想と日常のギャップに悩まされることがなくなってきます。
意識が鮮明になってくると、最初のうちは瞑想と日常のギャップが逆に強く感じられてきつい場合もありますが、次第に苦痛も減っていきますし、「これはしんどいな」となってもまた自然に自分本来の状態に戻るようになります。
ホームに帰るという言い方をされる方もいまして、先日瞑想会に参加された方もその言い方をされていましたが、私もホームに帰るという感覚がありました。
そして元々それそのものだから、戻る戻らないもない、という見解もありますが、多くの方が仕事をしたり、娑婆での生活においてずっとそこに居続ける、在り続けるのは難しいので、ホームに帰る、ホームに戻るというのがしっくりくる方は、そのやり方を取るのも良いでしょう。
私が最終的に言いたいことは、外側の気づきの対象ではなく、気づきの主体、気づきそのものであること、そして意識の鮮明さ、それが肝心なことであるということです。
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