本質的なハートの覚醒

以前にアジズとフーマンの教えで、気づきとくつろぎについてお話ししましたが、今回はアジズやフーマンが述べていた第3のポイントである、ハートについてお話しします。


このハートといえば、スピリチュアルの世界において、よく言われることではありますが、私は一般的なスピリチュアルで言われているハートは、何か情緒的と言いますか、エモーショナルな感覚でとらえられているように思えます。


それはもちろん間違いではないですが、それはハートのごく一部に過ぎないと思っています。


ここではフーマンがハートについてどう言っていたか?ということはあまり触れずに、私が実感したハートについて主にお話ししていきます。


とはいえ、フーマンはハートが開くことを恩寵の扉が開くと言っていて、ほとんどの人が普段ハートが閉じてしまっていますが、それがハートに働きかけるワークや瞑想によって次第に開いていきます。


そうすると恩寵を受けることになります。


恩寵というと、主にキリスト教で言われている言葉で、英語でグレースですが、私が思うによく自力と他力ということが言われますが、例えば一人で瞑想をしていく、これは自力であり、恩寵を受けるととなると、これは他力ということになります。


そして自力と他力、これはどちらがどうこうというものではなく、どちらも大切なものであると思います。


他力だけだと何か他の物に依存してしまったり、神仏の助けをただ当てにするようではよろしくないかと。


だからと言って自力だけでなんとかなるかといえば、エゴに基づいたものだと、自我意識による自力ということになり、それもまた限界があります。


そういったものを超えていくことによって、神でも大いなる存在でもなんでも良いですが、そういったものから恩寵が注がれます。


それもただ「恩寵がないかな?」「助けがないかな?」と当てにしているだけではダメで、人事を尽くし天命を待つという言葉がありますが、それは真理であると思います。


そしてこの恩寵を受けとるとはどのようなものかといえば、現れとして色々とありますが、エネルギーとして感じる場合もあるし、光として感じられる方もいるでしょうが、私の場合は「これはちょっと厳しいな」という状況に陥っても自分の意思を超えたところでフッと助けられたりします。


そのようなことがあると、自我意識によるものとか、対策や戦略を立ててなどをしてなんとかしようとすることなど、そのようなことが必要な場合もありますが、それではどうにもならないこともあり、人智を超えた存在というものが間違いなくあると実感しています。


何でもかんでも神のごとき存在が、私たちを常に助けてくれるということではなく、それは人間的な意識による助けではないです。


エネルギーを感じて、心身が整って物事をきちんと解決できるようになることもあるし、現象が好転していくということもありますが、それはマインドの働きによるものではありません。


ハートが開くという表現をしていますが、ハートが閉じているから開くという表現をしますが、本来は閉じる、開くというものではないのですが、本当にハートがオープンになってくると、恩寵の現れというものを実感してきます。


こればかりは言葉で説明してどうこうなるものではなく、自分自身で体感していただくしかないと思います。


そして自力で瞑想する、自力で修行するという考えが強い人だと、ハートに触れることがまずないです。


瞑想に長けて、悟りや覚醒ということを言っている人でも、ハートに関しては全然言及していない人も少なくないです。


私はリーラスペースというところで、ハートのことを学び、瞑想することでハートが大切だと実感しました。


それでも一時期はハートについて考えなかったり、重要視しない時期もありましたが、結局私の場合はハートが非常に大切であるなということがわかってきました。


これはあくまでも私個人のことであり、ハートは自分にとって重要ではない、という人はそれが間違いであるということはないと思います。


そしてここでのハートは最初にも言った通り、愛とか光などのエモーショナルなものだけでなく根源であり、ハートは中心という意味もありますが、全ての中心でもあります。


フーマンが言っている恩寵の扉ということも言えるでしょう。


私にとってはハートがあるかないかで大きく違ってきており、やはり自力だけでどうにもならないのが、恩寵の働きによって改善されるとか、迷妄から目覚めていくということが多々ありました。


恩寵を完全に否定する人もあまりいないと思いますが、ハートがやはり鍵を握るかと思います。


ハート瞑想の中で、アティーシャのハート瞑想というものがあり、トンレンとも言われますが、これはエネルギーでいうと濁ったエネルギーであったり、自分にとって避けたい、目を背けたいということをあえてハートに吸収し、ハートから生じる喜び、慈悲、恩寵といったものを振り撒いていく、一般的な概念とは逆のことを行う瞑想がありますが、ハートにはそういった働きがあるんですね。


これはハートを意識しないでやっても、トンレンは濁ったものを吸収するだけで終わってしまいます。


ハートは変容させる働きがあり、トンレンはうまくいくと強力な技法です。


ただし闇雲に悪いとされるものを吸収し、良いとされるものを振り撒いていく、これでは自分自身がおかしくなってしまいかねないので、まずは気付きやくつろぎ、プレゼンスやビーイングがベースとなっている状態でのハート、それによるトンレン、アティーシャのハート瞑想が有効になっていきます。


これはフーマンが言っていたことと聞いた記憶がありますが、気づきが明確でない状態で、ただハートが開いていると、誤った形での慈愛、慈悲というものになり、おかしなことになってしまうということですが、これはその通りだと思います。


例えば自爆テロがあり、これを行なってしまう人も、ある意味自分が救われたいとか、これによって自分が救われるんだ、というような思いでやっているのではないかと。


これもある種のハートの働きと言えなくもないですが、ほとんどの人はそう聞いても「いやそれは違う、おかしいよ。本来のハートの働きとはとても言えない」となりますね。


これは極端な例でしたが、背景に気づきや存在にくつろぐということがなく、ただ闇雲にハート瞑想を行うのは避けた方がいいという人もいて、私もそれに賛同します。


私が瞑想会やセッションで、ハート瞑想やハートのワークを行う時には、ハートだけを行うことはありません。


まずはしっかりと迷妄から覚めていき、その状態でのハートが大切ではないかと。


そしてラマナマハルシもハートという言葉を使っていますが、マハルシの言っているハートも当然情緒的なものではなく、中心センターとしてのハートであると思います。


マハルシは慈悲とか愛というものをそこまで強調してはいないですが、やはり愛の人であった、という話もありますし、慈愛としてのハートをも備えていたことは間違い無いでしょうが、本を読む限り情緒的な意味でのハートではないと思います。


マハルシはハートの位置が右側にある、と述べていたと本に記述がありますが、あまりこの具体的な位置は重要ではなく、中心センターとしてのハートの働きが大事であろうと。


ある時は右側にあると言っており、また別の時にはハートはこの肉体上のものではない、ということも言っています。


便宜上肉体におけるハートがあるとされる位置に、まずは意識を置くことをやりますが、これはあくまでもきっかけであって、プレゼンスの時も眉間にいったん意識を置くとしますが、そこが気づきの根本ということではなく、まずは肉体上のポイントに意識を向けることで、それがわかりやすくなる、発現しやすくなるということであり、肉体上のどこかにあるということではありません。


その点もしっかりと理解しておく必要があります。


それではここで少しハートの瞑想を行ってみましょう。


今回は先程お話ししたトンレン、アティーシャのハート瞑想は行わず、ハートに意識を向けるということをやってみます。


私が初めてハート瞑想を指導の元に行った時は、音楽を背景に行いましたが、ハートに響く音楽がいくつかあり、それを用いると非常に効果的ですが、ある人にとってはこの音楽が非常にフィットしたのが、別の人にはその音楽が合わないという場合もあるので、音楽を用いるのも難しいものがあります。


そして音楽を使うと、どうしてもメロディーやリズムに意識が持っていかれてしまうこともあるので、本来は無音で瞑想するのが好ましいです。


私も一時期はハート瞑想の時に音楽を使っていましたが、最近はやっていません。


そこで今回は無音でのハート瞑想を行います。


まずはハートの位置に手を置きます。


そしてゆったりとした呼吸をして、吸う息がハートに到達し、ハートから息が吐き出されていきます。


じんわりとハートを感じ、それが少しずつ振動し開いていきます。


ハートが実感できた方は両手を下ろします。


そのままハートに意識を向けていきます。


できる方は長めに時間を取って瞑想されるのが良いでしょう。


伝統的な修行法、瞑想ではハートに言及されることはあまりないですが、私はハートは重要な鍵を握っている気がします。


瞑想は自力の要素が強いですが、自力だけではどうにもならないものが、このハートにおける恩寵、これは他力でもありますが、これによってニッチもサッチも行かないような状況でも、そこから解放されていくということがあります。


このハートの働き、変容させていく働き、これによって人々の目覚めも促進していくのではないかと思いますし、他の現象も変わりうるかもしれないなと感じております。


これは絶対的にそうだというわけではないですが、私がなんとなく感じていることです。


数人の人しかハートが開いていない、ということならそういうことは起こらないでしょうが、閉じていたハートが開く人が増えてくることによって変わってくる可能性があると思います。


ただこれもただ単にハートを開けば良いというものではなく、まず根本に迷妄から目覚めていくというものがあり、その状態でハートが開くことで、よりトータルな全体的なものとなるでしょう。


それによってバランスの取れた、本来の在り方というものになっていくと思います。

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