佐藤宗一さんとの対話 佐藤宗一さんとの対話第一回 ~瞑想と悟り、覚醒について~
無境 今回は佐藤宗一さんとの対話です。佐藤さんには瞑想を教わっていますが、私から佐藤さんに色々と質問を投げかけて、それに佐藤さんに答えていただき、対話を進めていこうと思います。佐藤さんよろしくお願いします。
佐藤 よろしくお願いします。
無境 簡単に自己紹介をお願いいたします。
佐藤 はい。佐藤宗一と申します。東京で空風瞑想(そらかぜめいそう)という瞑想を教えています。瞑想歴はそこそこ色々な瞑想をやってきましたので、そういったことも含めて、ノウハウなどもありますし、それらを活かして指導をしています。あとはラマナ・マハルシの説く「私は誰か?」ご存じの方も多いと思いますが、そのことをテーマにした瞑想なんですけれども、それを教えているという感じですね。簡単ですがこれくらいで。
無境 どうもありがとうございます。私も空風瞑想を教わって一年以上経ちますが、一般的にマインドフルネスという形で瞑想が広がっていますが、それはそれで喜ばしいことだと思うんですけどね。
ただ例えばラマナ・マハルシであるとか、インドの聖者や賢者方が提唱していた、仏陀もそうですが、そういった方々が提唱されてきた瞑想とは、また違った形で今は広まってきているかと。
それが悪いわけではないですが、例えばヨガなんかも、今では美容に健康にはヨガ!というイメージですが、元々ヨガは精神的、霊的なものであって、瞑想にしろヨガにしろ、今ではより一般的な形で広がっていますね。
それに対して空風瞑想は釈迦牟尼やラマナ・マハルシであるとか、そういった方々が提唱されてきた瞑想かと。もちろん全く一緒ではないですが、エッセンスは同じだと思います。
ここで佐藤さんご自身から空風瞑想について、言える範囲でご説明をお願いします。
佐藤 「私は誰か?」というのは、仏教にもちょっとありますし、広い範囲でいうと色々な宗教の中に織り込まれているんですね。ギリシャでも「汝自身を知れ」という言葉が残されているくらいです。昔から自分自身を知るというのは、割と大事なことなのかなと。
ただ自分自身を知るというのは、とらえ方が広い範囲になりますので、それをどうとらえていくか、ということになると思うんですけれども、それを瞑想的なところで、知的な知識ではなくて体感として知っていくということが空風瞑想で、私が編み出したものということになります。
これは知識だけで終わってしまうと、それはもうそれだけでして、これが瞑想を入れ込むことでそれがより実感として出てくる、ということになりますので、まあそこのバランスですかね、知識と実感というもの、それを上手く練り上げていったものが空風瞑想、大枠ということでいえばこのようなことです。
無境 はい、ありがとうございます。私が空風瞑想に取り組んでみようと思ったのが、今佐藤さんがお話されたことで「ああ、これだ」と感じたんですね。「私は誰か?」ということですよね。その辺りを瞑想によって探求していく、それを知るということ。
もちろんここでの知るというのは頭で知るではなく、本来の意味での体験として落とし込んでいくということではないかと思うんですけれども、本当の私とは何か?ということを知ることについて、佐藤さんの方からまたお話していただければと思います。
佐藤 本当の自分を知るというのは、これは瞑想での体験になってくるので、言葉でなかなか説明できないというのがあることはあります。
現実に「それ」のことを何と言うのかというと、真我という言葉があったり、意識だとか存在だとか色んな言葉になってしまって、ただ瞑想で「ああ、これか」というのがわかってしまえば、そういう言葉が不要になってしまう。
ただ人に説明するときだけ真我だとか、存在とか意識とか、そういう言葉を説明として使う、ということになると思うんですけれども、そこのところは実際に瞑想として体験してもらうしかないかな?と思いますね。ちょっと説明が難しいんですが。
無境 そうですね。私も質問を投げかけておいて、これはちょっと説明が難しいかな、と思いまして、無理なことをお願いしたかとおもいますが、ただ悟りとか覚醒という事も色々と言われているじゃないですか、その辺りが結構人によって言っていることが違ってまして、例えばワンネスだとか、差を取ることが悟りだとか言う人もいますよね。
私が空風瞑想をやってみたいと思ったのが、佐藤さんが言われた瞑想によって自分を知るということですね。
悟りとか覚醒はそのことだと佐藤さんが書かれていて、それを見て「ああ、これは良いんじゃないか」と感じてやってみることにしました。
佐藤 私自身も瞑想を始めたきっかけが、やはり悟りたいというのがあったんですね。
でも当時悟りというのが、もう30年以上前になりますけど、悟りとは何か?というのがわからなかったんですね。でも仏教の本を読むと悟りということが出てくるので、これはきっとすごいことなんだろう、という感覚的なものが先行したんですが悟ってみたいなと。
何千年もそういう言葉が受け継がれているということは、やはりすごいことなんじゃないかなと。それが最初ですね。でも悟りとは何かと全然わからなかったです。
そして仏陀が瞑想して悟りを開いた、もちろんその前に修行とか色々とやってましたけれども、瞑想するというのが一つのキーワードかなと思ったので、それまでは仏教書とか色々と読んでいたんですけれども、瞑想を取り入れてみようということで、取り入れていきました。
まあ瞑想をしていると色々な気づきがあるもんですから、「これが悟りか?!」というのが何回かありましたよね。
ただそういった瞑想的な体験はあくまでも体験なので、じゃあそれが本当に悟りか?ということを自分で突っ込んでいったときに、100%確信が持てなかった、というのはありましたね。
だから100%確信が持てる悟りってなんだろうな?というのはずっと探求してきたかなと思います。
世の中に色んな悟りとか覚醒とか言葉もありますし、色んなことを言われる方もいて、それはそれでいいんですけどね、私としては足りないところや、疑問に思うこと、信じきれないことなどを追及していって、悟りが訪れるのかなと思います。
無境 はい。それで今体験という言葉が出ましたが、よく一瞥体験というものをされる方もいますが、これは瞑想中であったり、瞑想でなくても、普段の日常生活で一瞥体験をする例もありますが、それをもって「ああ私は悟ったんだ」とか「全てわかってしまった」という人もいまして、中にはそれが一瞥で終わってしまって「あれは一体何だったんだ?」という人も結構いて、その体験をまた追い求めて、でもその体験は追い求めてもまた訪れるものでもないですね。
その一方あくまで体験に過ぎないものにとらわれて「私は悟った」となってしまい、私から見るとちょっと勘違いされているのかな?というケースもあるんですが、佐藤さんは体験と本質的なものとはどのような違いがあると思われますか?
佐藤 そうですね。体験というのはある程度必要だと思います。
ただ元々の根本の目的というのは「私は誰か?」を知るというのがありますから、「私」」というのは体験ではないわけですよね。そもそもそうだから。
無境 「私は、私であることを体験したんだ!」なんて言いませんものね。
佐藤 そうですね。「私は私を体験したぞ!」というのはあり得ないわけです。
だけどそれまでは「これは本当の私かな?」という体験は必要だと思います。そこを更に突っ込んでいけば、それは体験でなくなる領域や壁を超えるところがあるんですね。
そうすると「私はこれだ」とガッチリ決まって、逆に体験どころかそうではない自分でいることができない、という風になってくる。そこのところが一つのポイントとなってくるのかな、という風に思いますね。
だから通過点としては体験があってもいいけれども、そこも超えていく必要があるし、超えられるんじゃないかと思います。
無境 いわゆる体験をした人というのは、ある種の興奮状態といいますか、「ああ、私はこれだけの体験をした!全てがわかってしまった!」といった感じがするんですね。それに対して本当に「私が誰か」とわかった人というのは余り仰々しいことを言わないような印象があるんですけれども。
佐藤 そうですね。実際に体験というか悟りという点でいうと、最終的な悟りというのはガッカリするんですね。
私は悟りというものを、ずっと期待値を上げて探求してきましたが、最終的なところでは「こんなものなのか?」といった感じになってしまって、逆に後から考えると「ああ、それで良かったんだな」と。それが正しいんだなと。
どちらかというと当たり前の自分に戻った、という感覚なんですね。何か神秘的な体験をして自分が高まったとか、そういうことではないというのが私の中ではありました。期待していたんですけどね。神秘的な方を。でも結果的に全然違っていました。
無境 私もかつては色々とダイナミックな体験があったんですよ。
色々と見えたり、聞こえたり、感じたり、全てがわかったようになったり。それと精神的にも怖いものなし、それこそ矢でも鉄砲でも持ってこい、みたいな感じになったこともありました。
でもそれは一過性のもので、崩れてしまうんですね。そして段々そういったダイナミックな体験が落ちてきて、佐藤さんが言われたように、「何だ、ただ当たり前のこういうことか」となってきて。
ただそういう素晴らしき体験とおぼしきものをして、それが落ちてきて、「瞑想できなくなっちゃった」と思ってしまう人もいるような気がするんですよね。
でも実際のところはそうではないのにな、と思うんですが、佐藤さんは瞑想を指導されてきて、その辺りどうでしょうか?順調に進んできているなと思っても、途中でできなくってしまったりとか、そういった方もいらっしゃるのではないかと思うのですけれども。
佐藤 やはり瞑想ということでいうと、色んなことを期待される方が多いんですね。瞑想するとどうなる?とか、幸せになるとか、望みが叶うとか、色んなことを調べれば、ネット上でも載っていますので。
ただ結果的にそういうことではないということで、熱が冷めていく人はいますね。もしかすると瞑想していて「願いが叶いました」とか「物事がうまくいくようになりました」ということがあるかもしれないですけれども。
でも逆もありますね。瞑想してもうまくいかないとか、瞑想しても体調悪くなっちゃったとか。
そういうところで自分の瞑想の評価というものが決められてしまうと、瞑想のポテンシャルが非常に限定されてしまう気がしますね。
だからなるべく、それはあるかもしれないけれども、目的はあくまでも「私は誰か?」を知るためだから、瞑想中の体感としての「私」というものにいつも集中しているように指導します。簡単に言うとですけどね。
そこに向かってもらうようにしていますが、これは非常に地味なもので続けるのが難しい。
それに何のメリットがあるかといえば何もないので、目指すところは割と壮大ですが、ただやっているときにそれを理解するのが非常に難しい。
それよりもちょっとした幸せとか願望とか健康とか、そういうことの方が拾いやすいし、そういうことが起こるといい気分になるので、どうしてもそっちに行ってしまうかなと思いますね。
その辺り教えるときには注意して、本道の方を見失わないようにしましょうと。ただ色んなことは起こりますと。そういうところは注意をしています。
無境 今言われた通り、ここでは本道と言っておきますが、それはやっぱり地味じゃないですか。色んなスピリチュアルにおいて、引き寄せだとか、願望が叶って思うがままに生きるであるとか、宇宙存在に繋がってどうだとか、まあそういう方が面白いじゃないですか。そこでやはりそっちの方に惹かれる人が多いですよね。
悟りとか覚醒でも、自分がとんでもない存在になって、悩みや苦しみが一気に無くなってしまうような一発逆転思考の人が結構いるんですね。
でも佐藤さんが提唱されていることや、空風瞑想はそういうものと全然違うじゃないですか。余分なものをどんどん削ぎ落していく。
それと私がこの方は本当にわかってらっしゃるなと、例えば非二元でも本当にわかっている人は余分なものを削ぎ落していく、それは無理に落とすのではなく自然にそうなっているんですね。
そしてメリットも全然ないですよと言われるし、本当にそれはそうだと私は思いますね。
佐藤 そうですね。一般的な意味でのメリットはないから、こういう瞑想を続けるのはなかなか難しい。モチベーションを持ちにくい、保ちにくい瞑想だとは思いますね。私は誰か?という探究も含めて。
ただね、モチベーションある人もいるんですよね。不思議なことにね。そういう人には本当に珍しいね。と言うんですけどね。そういう人が来られた時にはね。
でもそういう人は純粋な探究心があって、まあそういう人もいるのかな、とも思いますね。
だからまあ、みんながみんなメリットを求めているわけでもないのだなと、色んな人に教えていて思ったんですけどね。
なんというんですかね。潔いというか。
でも私も途中からそうなってきまして、何も求めずにね。そしてこの先の瞑想がどうなっていくか見てみたいという好奇心がどんどん優っていったので。
やはり私の周りにも色んなことも起こったし、私も辛いことだって起こるし、悲しんだりとかそういったことは当然起こるので。
ただそういうことも、「私は誰か?」ということを確認する上で、非常に大事な体験だったと思います。それで崩れるようなら、本物ではないということなので。
無境 やはりそういった悲しみとか苦しみとか憂いといったものが、完全に消え去ってしまうわけではないというか、起こる時もあると。ただそれにとらわれないとか、引きずられないとか、そういう印象があるんですけれども。
佐藤 そうですね。どんなことが起こっても「私は在る」という感覚が自分の中に、中心に在るというのは絶対に変わらないんですよね。それはどんなことが起こってもここは全然変わらないんだなと。逆に嬉しいことがあってもそれは同じなんですね。全然変わらないと。
それは何回も確認してきて、自分の中に辛いことや悲しいことがあったり、辛いことや悲しいことが起こっても、それは心がそう思っているんであって、「私」が悲しいとか辛いわけではないということがわかり、それを確認していったという感じですね。
実際の感覚としてはもう少し複雑なんですけどね。この辺りというのは。
ただ、今の質問でいうと、やはり絶対変わらないものがあって、周りで色々なことが起こっている、それに何にも影響を受けることがない自分がいる、というのは確かだなと。
それが一つの安心感だとか、そういったものに繋がりますけれども。
ただそういった説明だけでもない、というのもありますね。
無境 そうなんですね。ただ起こることは起こったとしても、それがどうであれ、良かろうが悪かろうが、それにとらわれない。
その方が楽を求めているわけではないんですが、結果的に楽じゃないですか。
佐藤 そうなんですよね。いつもビクビクして、嫌なことが起こったら嫌だな、というのがないんですね。
逆に言うと、辛いことが起こっても構いませんよという、そのようなスタンスでいつもいられるということが、あるっちゃあるかなと。
まあ、個人の部分、マインドは嫌がってはいますけどね。それも当然ですけど。
でも芯の部分では、何が起こってもいいですよ、という割とオープンなスタンスと言いますか。
だからそこに嫌なことが起こったら嫌だな、というものもないし。そこの部分については。
それは自分の中で無理してそうしているわけではなくて、もうそうなっちゃってるという感じですかね。
無境 結構、無理矢理そうしようとしちゃう例があるじゃないですか。初心者の人であったり、私は悟りたい、覚醒したいという人の中で、こうしてはいけない、こうなってはいけないとか。
でもそれ私もやってきたんですけど、何かそれは不自然なんですよね。一時的に落ち着いたように思えても、後でドーンと反動で来たりとか。
自然にそうなるというか、そうであると言う感じになっていくのが本来なのかなと。
佐藤 そうですね。そうなってしまうという感じですかね。そうとしか言いようがないんですけど。
無境 まあ逆説的に言うと、それがメリットだと思うんですけども。一般的にメリットと言うと何かを得る、喜びであるとか、素晴らしいことが起こることをメリットとしていますが、無理せず、苦しみとか悲しみ、憂いとかが自然と落ちついてくる、落ちてくる、無理をすることなくですね。
それってメリットといえば素晴らしいメリットだと思うんですよ。心も平安になってくるじゃないですか。
佐藤 私は真我だと理解するということは、自然にそうなることであって、マインドが悲しまないようにとか、苦しまないようにコントロールしているわけではないので、自然にそういう風になっていくので、それはそれでメリットといえばメリットなんですけれども、そうなると心がいつも落ち着いて平穏な状態にする、というように目的が変わってしまう恐れがありますね。
本来は「私は誰か?」ということをしっかりと理解するという方向ですので。そこがブレてしまうと、そこが目的化してしまう恐れがあるので、そこは注意する必要があるかと思ってます。それでも起こってしまうことは起こるので、それはそれで良いことかと思いますけどね。
無境 そういうものって、ある意味瞑想の副産物かと思うんですよね。ヨーガでもシッディといって、超常的な力がつくとか言われてまして。まあそれはあり得るとは思うんですよ。
ただそれってあくまでも副産物であって、でもそれにとらわれてしまう人が結構いるんですよね。
佐藤 副産物は面白いんでね。私がブレないように、と言っているのは大体そういうところを注意するということで言うのが多いですね。その存在は認めるけれども本質ではない、ということを知っていてくださいね、という感じでね。
無境 ここのところはかなり大切なところですよね。そちらにどうしても意識が向きがちになるので、そこで引っかかってしまって本筋から外れていく場合もあるのかなと。
それはそれでそちらの方向にいく人は別にいいと思うんですが。
佐藤 それはそれでとことんやってもらって、それもまた変化するものだから、段々しんどくなってきますからね。
そして変化しないものを求めてくると、真我とかそういうところしかないわけなんで、また戻ってきますね。
そういうことも気づきの体験と言いますか、一つのサイクルとして、成長の過程であっても良いのかな、とも思いますね。
私もそういった成長の道筋を辿ってきたかなと思います。
無境 この辺りの話は、なかなか重要なポイントだと思うんですけど、ちょっと話が別のトピックになりますが、ラマナ・マハルシの名前を出されていまして、ラマナ・マハルシは一般的には真我探究というものを提唱されていたと言われてまして、マハルシは瞑想という言葉を使っていた場合もありますが、瞑想と真我探究は違うんだ、という意見もあるんですよね。
その辺りはどのようにお考えですか?
佐藤 そうですねえ。瞑想という言葉の範囲が広すぎるので、ただ目をつぶって座るということも瞑想になりますし。
ただ空風瞑想はどちらかというと、瞑想しながら探究ということになりまして、ただ単に目をつぶって、深いところで何も考えないでじっとするものではないわけですから、その瞑想という言葉を使っている人がどういうものをイメージしているかというので違ってくるかと。色々とあるのでね。
私は範囲が広い分、瞑想という言葉を使って良いのかな、と思っています。ほぼ探究なんですけどね。
それでもまあ、瞑想で目をつぶってじっとはしているので、それで良いかなと思っています。
無境 単に心が静まって、止まっているとか、心地良さに浸っているとか、そういうことではないということですよね。空風瞑想はね。
佐藤 そういうことです。
無境 それで瞑想ができてると思っちゃう人もいるじゃないですか。
佐藤 まあ、それは一つの準備段階としては良いのかな、とも思います。ただ私もずっとそれを、本当に20年近くそういう瞑想をしてきたので、いくらでも静寂だとか、深い瞑想だとかはすぐできちゃうようになったんですけれども、それでどうなんだ?という引っ掛かりがありまして、そこがまたラマナの本を読み返して、それが自分の瞑想を見返した結果になっています。
「ああ、これに探究を入れれば良いんだな」というところで上手くいったと言いますか、相乗効果、瞑想と探究両方良い感じで混ざったものですから。
探求だけだと難しいと思うんですよ。ただ頭の中でグルグル考えるのも難しいし、瞑想してただじーっとして何も考えないで深い瞑想に入っているだけでも、何か進んでいる感じがしないし、そこのところを上手く合わせていくことによって、私は良い感じになったなと実感しています。
無境 今のお話を伺って、仏教で止観、サマタとヴィパッサナーという瞑想の分け方がありまして、サマタが集中して心が止まっていると、それに対してヴィパッサナーは観察する。
観察と探究は違うんだ、という人もいますが、今の話の流れで言うならばそういうことなのかなと。
やはり探究と観察って、本当の意味ではある程度瞑想が深まらないと難しいと思うんですよ。だけど単に深まって「ああ、これで良いんだ」と、ただ静まっているだけでも違うし、この両方が大切ということなんでしょうね。
佐藤 そうですね。その方が上手くいくという感じがします。まず瞑想で土台を作っておいて、そこで探究を開始していくという方が、非常に自然でやりやすい環境かなと思います。
無境 佐藤さんは、悟りや覚醒や自分自身を知るということにおいて、瞑想が非常に優れたやり方であるということで伝えられていると思うんですけど、中には瞑想不要論の人もいて、瞑想はすること、ドゥーイングだからダメだ、という人もいたり、瞑想はまだ対象があるからそれも二元だという人もいて、それについて佐藤さんはどう思われますか?
佐藤 そうですねえ。瞑想不要論。私もこの方法だけが真我覚醒の唯一の方法だとは思っていないんですよ。色んな方法があって全然構わないと思うし、もっと素晴らしい方法をこれから編み出す人もいるかもしれないので。
ただ私のセオリーとしては自分の辿った道を上手く凝縮して、空風瞑想というメソッドに落とし込んでいるので、それしか知らないんですよね。真我実現のための方法として。
もちろん瞑想がいらないという人は、別のメソッドがあるかもしれない。それはそれであるのかもしれないけど、私は何とも言えないというところがあります。
ただ、どんな感じですか?というところで話が合うんであれば、それはそれでその人は確立しているんではないかな、と思いますけれども。
自分なりに結果を出している方法なのか、というところもあるかなと。
無境 今佐藤さんが言われた姿勢というのは、私は非常に素晴らしいものだと思います。どういうことかというと、「私の行っている空風瞑想が唯一絶対だ!」というものではなく、他にも良いものがあるという姿勢ですね。
ところが結構指導者の人達は、自分の行なってきたメソッド、やり方、在り方に対して、絶対の自信を持っている人が多くて、「これ以外にないんだ!他のやり方ではダメだ!」という人もいて、この瞑想法はこれこれこういう理由で優れていて他はダメだ、という人もそれなりにいて、私も以前にそういう人と会ったりしてきましたのでね。
人は自分の成功したものが絶対で、他の人にも当てはまると思っちゃう人が多いですが、佐藤さんはそういうことがなく、その姿勢が私は良い姿勢だなと思うんですよ。
佐藤 自分でやってきたものを凝縮しているので、自信を持ってと言ったらあれですけど、私も何度も確認して作ってきた瞑想法なので、その通りやっていただければある程度の結果は出るのではないかという感触は得てます。
ただその人それぞれの色んな考え方もあるでしょうし、好き嫌いもあるでしょうし、私と合う合わないというのもあったりするので、それはやはり私が絶対唯一とは言えないところだし、その人が「それは私が失敗した道なんだけどな」という方向に行ったとしても、その人にとっては必要なことかもしれないから、やはりその人その人のステップというものも尊重しないといけない、というのもあるかと思います。
無境 ありがとうございます。話が色々と尽きないんですけれども、また機会がありましたらこういう風にお話しさせて頂いて、皆さんにちょっとでもお伝えすることができればと思います。色々とありがとうございました。大変貴重なお話が聞けたと思います。
佐藤 どうもありがとうございました。
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