色々と生じてはくるけれども私は在る

瞑想していると、色々な想念、思考や感情などが出てきます。



私の場合、瞑想に取り組み始めた頃に比べれば格段に減っていますし、仮に出てきたとしても、それに煩わされることはなくなりつつありますが、まだ出てくるものは出てきます。



それらに以前はとても気になっていましたが、私が瞑想や非二元、不二一元といったものを教わった何名かの方が言っていたことですが、「想念など色々と出てくるにも関わらず、私は在る」ということを言われていて、これが私の中で非常に腑に落ちて安心できました。



「ああ、色々と生じてきても背景にしっかりと私は在る。普段これが私だ、と思っているものも幻なんだ」ということに今は確信を持っています。



瞑想に入ってから想念の出方も様々で、自分の印象だと非常に強く出る場合と、チョロチョロと出る場合があります。



そして自分の感覚だと濃い、薄いという感覚、これは私の個人的な見解ですが、非常に濃く出る時と薄い場合とがあり、当然弱かったり薄い場合が想念に巻き込まれにくく、強く出てきた時はとらわれたり巻き込まれやすいのですが、瞑想ができてくると仮に想念が強かったり濃く出たとしても段々巻き込まれなくなっていき、巻き込まれる事があっても、本来の自分にすぐ戻る事ができます。



最近は色々と出てきたとしても、初めに述べたように「色々と生じてはくるけれども私は在る」ことに確信を持っています。



気づきの主体、プレゼンスというものが本来の自分ということにつながってきますが、それが確固としたものとなっており、想念は来ては去っていきますが、来ては去っていくことなく、過去においても現在にも未来にも生じており、それは想念には巻き込まれたり汚されることはない、ということを様々な記述で知ってはいましたが、初めのうちは「色々と出てきて巻き込まれ、そんな状態でも私は在る、という事が言えるのか?」と確信が持てませんでしたが、今現在は色々と生じてきても、常にそれは在る、これに関しては確信があります。



私の場合は瞑想に入って一切想念が出てこない、完全なる無心、ノーマインドであるという状態ではなく、日常生活において何も想念が生じず、巻き込まれることもない、そういうこともないですが、日常生活においても以前よりは出てこなくなったし、巻き込まれることもずっと少なくなってきております。



私の信頼している指導的立場にある人たちは、出るものは出てくるものだし、別に気にすることなく、背景にしっかりとそれは在るんだ、ということを言われています。



そういった方々は今でもご縁が続いていたり、信頼関係がありますが、その一方「私は悟りを達成した、瞑想に入れば想念など出てこない」ということを主張する人もいますが、そういった人たちとは縁が切れてしまったり、「こうは言っているけれども、何か違うな」ということで離れていきました。



確かにそういう人たちは、一度瞑想に入れば完全なノーマインドに至れるのかもしれませんが、そういうタイプの人たちはマウントを取ってきたり、私が師匠であなたは弟子の立場だ、私の言うことを聞きなさい、ということを露骨に言わなくても言動で見え見えだったり、中には露骨に言ってくる人もいましたが、そういう人たちはある意味瞑想に優れていますが、人としてどうなのか?まだまだ未熟なところがあるのではないか?という思いがあります。



これは私が勝手に思い込んでいるだけではなくて、ケンウィルバーというトランス パーソナル心理学の理論家としてまず表に出て、今では独自の理論、トランス パーソナル心理学というものにとらわれず、インテグラル理論 という心理学だけではなく、社会問題にも 取り組んでいて、トランスパーソナルという通常の意識を超えた領域を研究したりしている人がいます。



トランスパーソナルとひとことで言っても色々とあって、 個を超えたこと、個という いうものを超えた体験をしたというように見えても、実は単に退行してるだけであるとか、 確かにある種の達成をしていても人として 未熟さを 残している場合もあるとか、いろんなタイプが いて、聖者賢者といっても 完全に超越して、なおかつ人としても成熟 しているタイプもあるし、解脱悟りという点においては優れて いても 人間性としてはまだ未熟な点があるとか 、様々タイプがおります 。




私が見るに瞑想中でも想念など湧いてこない、 no mind だというタイプの人は、どこかしら人間性に未熟な点があり、それはどっちが良い悪いということで はなくて、事実としてそうなのではないかと。



そういったタイプの方、そのような指導者に がついて結果を出すとか、 開放されるという方は当然 いると思いますし、そういった方は人間性としてはまだ未熟な面があるにしても、瞑想であるとかスピリチュアリティで あるとか覚醒とか悟りだとか、そういった面 においては群を抜いているという タイプの方に、学んで いけば良いと思います。



私個人としては、スピリチュアリティで 非常に優れていても、人間性の部分でマウントを取ってきたりとか、感情をむき出しにしてきたりとか、あるいは対応においてこれはどうなな?ということもありました。



それに対して今信頼している方々はそういったことはなく、私に対して何か意見があるにしても上から目線で言うのではなく、自己優位性を保つとか、感情に任せて言うのではなくて 、冷静にきちんと私の至らぬところを指摘していただいているという、そういった方々にはやっぱり信頼を置けて今でも 関係性が続いています。



そういったことは関係ないと、とにかく瞑想やスピリチュアリティとして優れ 、完全な覚醒を達成し自分を導いてくれる方についていければいいんだ、という方についていけばいいと思います。



これは聞いた話ですが、人間性とかそういったものは全然関係ないんだ、という方もいて、それも確かにその通りですが、私はそれには違和感があり、 そういった人からすれば色々と生じているにも関わらず私はある、ということが「まだ そんなものは途中の段階だ、究極次元に置いてそんなことは一切ないんだ、 私は何も出てこないし私は在るも超えている」となるでしょう。



それは確かにそうですが 、私たちがこの現実世界、物質世界において生活していく状態において、色々と 出てくるものもある、思考や感情も生じてはくるが、それにも関わらず私は在るということが本当に理解できたら、これは本当に素晴らしいことであるし、 その状態で生きるというだけでヘタにね no mind を目指して四苦八苦して、まだ色々と浮かんでくる、私はダメだと落ち込んだりしているよりもずっと素晴らしいと思います 。


究極次元を目指すということも素晴らしいですが、 「何何にも変わらず私は在る」 これが完全に腑に落ちる、それに対して 確信を開けるその状態で日常生活に送れるようになったならば、それは素晴らしいことであるし、まず何よりも自分 自身にとって本当に素晴らしいことであり、他の方々にも良い影響を与えていくと思います。


「○○にも関わらず私は在る」その状態だとその人自身は安定していて、それは周りも伝わっていきます。


そのような話は色々ととありますが、それに関してはまた別の機会にお話しできるときがあればと思います。



色々と出てきているに関わらず私は在る、これをまずは目指していくのもいいのではと思います。



私も最初のうちは一切何も出てこない状態を目指して、それを達成しようと躍起になっていましたが、あまりそこにとらわれすぎてもどうなのかな?と今は感じています。



完全に山に籠って刺激がないところでずーっと瞑想修行に没頭できれば達成できるかもしれないし、本当に天才的な修行者、探究者だったらこの世界にいながらも達成できるかもしれないですが、それはほんの一握りの天才で 、多くの人にとってはそれを無理に目指すということはない。



諦める必要もないですが、まずは何々にも関わらず私は在るということです。



それを目指し達成できれば、探求者としても本当に素晴らしいことであろうと思います。



今回は○○にも関わらず私は在る、ということとそこから派生して覚醒者でも色んなタイプがあって、人間性としてまだちょっと足りないところもある場合もあるし、まだそこまで究極の達成はしてないけども、人間的な非常に優れている場合もあるという色々なパターンもあることをお話しさせていただきました。

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